「きっかけはさ、今朝の八百屋で聞いたジャックオランタンの話だったんだよね」
凍りつく空気にも気づかぬように、黒マント姿のルカはかぼちゃ面をよいしょと小脇に抱え、平然と語りだす。
「あれさ、スタンはスルーしてたけど。僕にはとても他人事に思えなかったんだ。まるで、僕とスタンみたいだな、って」
「……、なんのことだ? マヌケな悪魔が人間に騙されたとかいう話だろう。お前、余がマヌケだとでも?」
何も考えられないうちに、口が勝手に動いた。まるで”本物のルカ”にするように。それほど、相手の気配、口調、仕草の全てがあまりにも自然だった。
(だが、……分からない)
魔王は唐突に分からなくなった。
――”本物のルカ”とは、なんだ? 自分は今まで、一体何をもって、恋人を”本物”と認識していたのだろう?――
目の前の、ついさっきまで敵と信じ込んでいた人物は、ちらりと視線をよこし、少しだけ笑う。
「そういうことじゃないよ。たくさん願いをかなえてもらっておきながら、報酬を渡さないジャックと。たくさん願いをかなえてあげているのに、何ももらえない悪魔。想像したら、苦しくなったんだ。ここが」
「……」
頭を垂れ、胸を押さえる仕草に魔王は何も言えなくなった。これが真っ赤な偽者ではないかという疑念はまだ残っている。だが、本当に敵対する気があるのならば、これほど隙のある動きをするだろうか。マントの立て襟から窺える首筋がひどく無防備だ。スタンは救いを求めるように背後のルカを窺ったが、物言いたげにじっと見上げてくる新緑の碧にますます困惑が深まるだけであった。どちらも正しく恋人である、としか認識できない。
「僕は、君に何もあげられていない気がしたんだ。あんなにやりたがってた世界征服も止めてしまって、ほんとに君は幸せなんだろうか。こんな地味なことの繰り返しでしかない生活の中に、君が得るものなんてあるんだろうか。君は、僕の恋人として生きるようになってから、ずっと失ってばかりなんじゃないか? ……って、思って、しまった。その疑いを、打ち消せなかった」
「……」
「君が、僕の恋人になってくれて、いっしょに生活してくれて、仕事にまで就いてくれて。すごくすごく嬉しくて、信じられないくらいで……だから余計に。こんなめんどくさいこと言い出せやしなかった。これ以上負担になりたくなくて、ああ……そうじゃなく、ただ嫌われたくなくて、かな……何も言えなくて。平気なふり、するしかなかった。でもこの気持ちを、自力でどうにかすることもできなかったんだ」
「そんなこと、」
スタンはあえいだ。恋人が思いつめているのに気づけなかったかもしれない、仮にそれが偽りであったとしても、許しがたいことだった。
「お前を今さら、面倒がるなど、嫌うなど、あるものか!」
迷いなく言い切るが、なんとも言えないゆがんだ表情を返される。半分笑ったような、半分泣き出しそうな。
「ごめん。今、やっぱりって思っちゃった。思ったとおりの答えだったから。君は、ほんとはすごくマジメで、優しすぎる、から。……だからね、ごめん。その言葉じゃ信じられない」
「なっ」
きっぱりと言い切られて男は鼻白む。万事控えめな恋人にここまで明確に手向かわれたのは初めてだ。
「今夜、夢の中でかぼちゃのジャックに誘われた時、断りきれなかった。だってずっとやってみたかったことだったから、ワガママだってわかってても……君の気持ちを確かめてみたいって。……ジャックは言ったよ。君にとってすっごくめんどくさいことを、嫌われるようなことをしても僕がしても、受け入れてくれるか、試してみればいいって。いつも絶対しないでおこうと思っていることを――」
言葉の途中から、ふわりと少年の身体が浮き上がった。顔の位置が、見下ろす高さから、同じ目線の高さへと。同時にぽわあ、と連動するかのごとく、抱えられたかぼちゃ面が白く光った。その光は帯状となり、ルカにリボンをかけるかのごとく、くるくると包みこむ。そして、
「――やってみれば、いいんだって!」
ごう、と魔力をはらんだ風が起き、マントを内側から大きくはためかせた。直後に紅の光陣が立ち上がり、少年の輪郭を鮮やかに彩る。それはあの旅の間、何度も繰り返し目にした光景で、スタンは息を呑んだ。
「オーバードライブ……! ルカ、おまえ……!」
「さあ、スタン」
うろたえる男を見据えるのは、全てを賦活する光を映しこむひとみで、場違いにもきらきらと美しい。いつも背後から見守るばかりだったのに、この技を使うルカと正面から相対することになるとは。あまりにも魔王の予想外のことだった。
「君は僕に、追いつけるかな?」
と、いたずらっぽく笑んだ顔が、一瞬でぶれる。
「なっ」
男はとっさに身構え、愕然とする。文字通り「目にも留まらぬ速さで」移動したマントの少年は、魔王が背後にしっかりかばっていたはずのベスト姿のルカをさらっていったのだ。
「ちょっ、何すんの僕、ぅえええぇぇー!?」
事態はこっちのルカにとっても想定外だったようで、急角度で上昇する飛行軌道をなぞるように、悲鳴が長く尾を引く。
「っ! おいルカっ……くそっ」
どちらにどう呼びかければいいか分からず、スタンはぐしゃぐしゃと髪をかき回した。
「……ええい、面倒な!!」
相手の思うつぼなのが本気でムカついたが、四の五の言ってられんと思いなおし、スタンもまた闇色の空間へと一気に駆け上がった。
はためくマントを追いかけ、魔王は何度も接近して背後を取ろうとするも、相手もさせまいと、急上昇急降下、急加速急制動を駆使してかわしまくる。とにかく信じがたいほどにすばしっこかった。
「聞けっ、ジャックのルカ! お前両手ふさがっとるではないか、いいから一度そのルカを置け、泡ふいとるぞ、おい!」
スタンは事態を打開したくてわめく。ルカに抱えられたルカは、あまりのアクロバット飛行に気絶してしまったようで、さっきからぐったりと動かないのだ。
「そうは言うけどさスタン、僕のことは偽者かもって疑ってるでしょ!? こっそりこの子だけ回収して、僕だけ置き去りで逃げ出されたらたまったものじゃないからね! せっかく苦労してお招きしたのに、さ!」
しかし、風切り音にかき消されないようにか、怒鳴り返されるのみである。相手はまったく飛行スピードをゆるめようとはせず、どころか言葉尻にさらなる加速までしてのけた。
(ええい、最初のもの静かな雰囲気どこいった!?)
「あのなー! お前一体何がしたいのだ! 単に嫌がらせならともかく、どうしたらさっきの”受け入れられるか試したい”とやらが達成されるのだ!? 余にはさっぱり分からぬぞ!」
「さあね、それ言っちゃったら意味ないじゃん!」
「り、理不尽な……!」
元仲間の女どもとは違った種類のワガママさに魔王はおそれをなした。子分にこんな一面が隠されていたとは、と内心唸るばかりである。
(それにしても、このままではラチがあかん!)
無駄に失神ルカが振り回されるばかりだ。どんどん視界の中で小さくなるマントに、
「くっ」
焦りから反射的に魔力弾を出そうとして、とっさに踏みとどまる。
(いくらなんでもやりすぎだろう、相手はルカだぞ!? だいたい抱えられてるルカも危ないし、ってくそ、ややこしいな!)
などと躊躇していると、大きく弧を描いた飛行軌道で、ちょうど地表近くをかすめていたルカが顔だけ振り返る。
「ああ、やっぱり攻撃しづらいかな!? 手加減なんかいらないよ、今の僕にはジャックが力を貸してくれてるし、ここでのダメージは現実の心身には一切反映されないんだから! それにここ、どこだと思ってるのさスタン! 僕の夢だよ!?」
と、相手の足先が茂みの表面を蹴散らしたかと思うや、飛び散った葉がピタリと空中に静止し、次の瞬間針のようになって一斉にスタンに降り注いだ!
「ぬおおおっ!?」
さすがに悲鳴を上げて回避に専念する。大回転する視界に、
「どう、これで本気になれそう!?」
と煽る声がご丁寧に降ってくる。
「ちっ、厄介だな……仕方ないっ」
舌打ちで意識を切り替えると、魔王は空間に魔力弾を極小サイズで生み出し、連続して投擲した。斜めに夜空を駆け上がるルカの軌道を先読みして、その進路にちょうど重なるようにコントロールする。障害物で足止めを狙う形だ。
(あれは飛行自体に慣れてはいまいっ、回避のために少し速度が落ちれば、どうにか……!)
考え終わるより早く、自分の放った弾を追うようにしてスタンも飛び出す。と、白い光を盾のように構えるやいなや、ルカは一切減速することなく魔力弾の群れに突入した!
「おおおおい!? ル、ルカー!?」
これには撃ったほうが絶叫である。連鎖して爆風が巻き起こり、視界を煙幕が埋め尽くす。スタンが慌てて二人の姿を探し、必死で目を凝らしていると、
「ねえ、どっちのルカが好き?」
「うわあっ!?」
鼻先でイタズラっぽい碧の目と視線がぶつかった。素で上げた叫びに相手はくすくすと笑う。とっさに見やった腕の中のルカは傷ひとつなかったが、対してマントのルカはさすがにノーダメージとはいかなかったらしい。頬はすすけているし、マントは端がボロボロに引きちぎれている。その姿のまま、彼は小首をかしげて歌うように問う。
「君を驚かせられるけど、思い通りにならない僕。君に従順だけど、いつも同じパターンの僕。どっちしか選べないとしたら、どっちがいい、スタンは?」
「そ、それは……」
「答えられないんだ?」
「……っ」
煽るように笑いながら、どこか哀しい色にゆらぐひとみが痛々しかった。抱きしめたい、とただ男は思った。言葉では通じないというならその身体に直にわからせてやりたい。でも、下手を打てばすぐに飛び去ってしまいそうで。口も身体もうまく動かなかった。
沈黙する魔王を見つめ、ふう、とルカは疲れたように小さく息をついた。
「……。まあ、いいかな、ここまでやれたら。もうすぐ時間切れだし……。年に一度の特別な時間は、そろそろおしまい。ほらスタン、見てごらん、空を」
「!?」
ルカのほうから無警戒に目線を切って見上げるので、スタンは一瞬ためらったが、同じように上を見た。すると、
「なっ……いつの間に!?」
先ほど空の低い領域にあったカーテン状の曙光が、大きく天頂へと張り出してきていた。ゆるゆると音もなく、降るような星々を透かして、やわらかなドレープを刻む輪郭が踊る。優しく暖かみを感じる色の光に、だがスタンは寒気をおぼえた。
「東の方なんか、もう真っ白でしょう? あれが、僕の夢の端っこ。あの光の中で夢の世界は存在できない。だから、ここまで光が届いたら、この夢はおしまいなんだよ。あとは目覚めるだけ」
淡々と少年は言うが、魔王としては泡を食うばかりだ。
「ま、待て! こんな形での終わり、余は納得いかんぞ!? あまりにも一方的なやりくちではないか、ルカ!」
焦りに声を荒らげると、
「……、あー……」
ジャックのルカはたじろいだようだった。目が少し泳ぐ。
「そう、だね。さすがに怒っちゃう、か……こんな僕は、やっぱりイヤだよね。……ううん、忘れて、スタン。朝になったらいつものルカだから。君のことが大好きな、ルカに戻っているから」
「ち、違う! 余は、余の望みは、もっと……!!」
哀しい笑顔のまま諦めを選ぼうとする恋人に、思わず身を乗り出したとき。
ぽろりと魔王の懐から一枚のカードがこぼれ落ちた。
「え」
「あっ?」
とたん、そこから強烈な紫の閃光が放たれ、ルカを取り巻く白光の帯に、ばちんと音を立ててぶつかった。ルカの姿勢がぐらり、と傾く。片腕で抱えた、もう一人のルカの重みを思い出したかのようだった。
「!? な、なにこれっ……この魔力、エプロスさん!?」
「……! あいつ……!」
スタンもまたその現象に驚いたが、すぐに思考を立て直す、おそらくこれが最後のチャンスだ。まずは、ともう一度空を仰ぐ。天のカーテンの接近速度から残り時間を洗い出せないかと考えたのだ。そして、気づいた。
「あ?」
スタンは目を見開く。空中戦の短い間に範囲があれだけ拡大したのだから、夢の端とやらはとんでもない速度で接近しているのかと思ったのだが。よくよく見ると、その光は東から西へと、打ち寄せる波のようにゆっくりとした動きでたなびいているだけである。
「どういう……」
つぶやいて地平を見渡すとヒントはすぐ見つかった。先ほどベストのルカと再会した、特徴あるシルエットの丘が、はるか西の地平まで遠ざかっていたのだ。どうも、マントのルカはよほど凄いスピードで飛行したらしい、ただまっしぐらに”東”に向かって。
「!? ま、まさか……」
スタンはうめいた。
「逃げようとしていたのは、お前のほうか、ルカ!?」
魔王は叫んでその姿を探した。争いあうふたつの光に苛まれ、マントの影はヨロヨロと、地面近くまで高度を落としている。
「お前、受け入れられたいとか言いながら、最初から答えを聞く気ないんじゃないのか!?」
だとすると色々つじつまが合うのである。普段のルカは人の気分を損なうのを嫌う性質なのに、今夜は妙に煽ってくるのも、空けられそうな両手をあえて使わないでいるのも、わざとスタンから拒絶を引き出して、事態を終息させようとしているのであれば納得がいく。
「ち、違うよ! ははっ、んなわけ、ない、じゃん……、スタンにムチャ振りしてみたかった、だけだよ! ほ、ほら、日頃さんざん振り回されてるし、さぁっ……」
今にも地面に足先を摺りそうな相手から、返ってきた声色はひどく切羽詰っている。そして、そこまで追い込まれておきながら、頑としてかぼちゃも抱えたルカも手放そうとしないのだ。
(ええい、ホンットーにややこしい……!)
魔王はこめかみを押さえつつも必死に思考する。受け入れられたいけど受け入れられたくない、それってええと、つまり?
「お前、余に決めさせようとしてないか? 自分の迷いを伝えずにはいられないが、迷う自分は不要として、余に否定してほしいのか」
「……ッ」
刺激しないよう、スタンはゆるやかな速度で高度を落とし、相手に近づいた。必死に睨み返しながらも、不安定に揺らぐひとみに思う。
(ああ、こいつは……臆病なのか。だから自分の望みに向き合うのが、こわいのか)
なんだ、と、スタンは声もなくうなずく。それなら良く分かる、と。
さっきのルカの質問でいうと、スタンは従順な恋人に満足、いや、安心するとき似た気持ちになることがある。恋人に自分の言動を受け入れてもらえないと、本当は嫌がられていないかと不安になってしまうのだ、情けないことに。しかし、だからと言って闇雲に何でも従わせたいのでもない、今みたいなちょっと生意気なルカだって悪くないと思う。言ってしまえばどんなルカでもスタンは好きなのだ。どれだけ振り回されようが、そばにいたい気持ちに変わりはない。
(確かに、そういうことを何も言わずにここまで来てしまったな)
男は気づく。恋人はいつも口車に流されてくれるからと、こっぱずかしい本心をごまかして来たけれど。この事態は己の、安直な対応からの、もっと言えば意気地のなさの、結果であるかもしれなかった。
ようやく事態に追いついたスタンの視界で、『答えは既にお前の中に。だから照らし出せ』と手渡されたカードはくるくると回転し、光に変換され消えゆこうとしていた。おそらくこれが力を使い果たせば、願いを暴かれたマントの少年は、今度こそ全速力で逃げ去ってしまうだろう。今も目前でいたたまれなさげに歯噛みしていることだし。
スタンは結論を出そうとしていた。ルカとの関係における自分の役割とは何か。この場面で、その自分の役割を最大限に発揮するには?
(――これしか、ないだろう……!)
覚悟を決めた魔王の黄金のひとみが、ぎらりとひらめく。そして、腰に手を当ててそっくり返り、
「フッ……クックックック。フワーッハハハハハ!」
思い切り高笑いした。それは神秘的な光のカーテン踊る光景に、まったく似つかわしくない馬鹿笑いであった。
「……えっ」
ルカが小さく盛らした声にスタンは苦笑したくなったが、あえてそこは邪悪な笑みを作り上げ、肩口でぐっと拳を作り、大きく腕を振りぬいた。影の時によくやっていた仕草のままで。
「どうやら余を見くびっておるようだな、子分よ!」
「!?」
「お前、何も分かってないな? 何やら世界征服を諦めただのぐちゃぐちゃ言っておったが、余がそんなことで収まるような腑抜けに見えておったのか。ガッカリだぞ子分! 余はな、ただ支配対象を変えただけだ!」
「う、ええ?」
影魔王たるスタンの面目躍如、よくわからないペースに巻き込まれたルカはすっかり覇気を失って目を白黒させている。スタンはそのペースに自分自身も乗せ、隙あらば胸の奥に引っ込んでしまおうとする本心を引きずり出しにかかった。
「世界を支配なぞ、もはや面白くも何ともない。いいか、滅多に言わんからよく聞けよ子分! 余は、……余はなあっ、お前という存在だけを、カンペキに支配して、余のものにしてやろうと心に決めたのだ! こういう生意気な面があるのなら、しつけがいがあるとしか思わんわボケ!」
「……! は、あの、うぇ? ちょっ、それって」
我ながらとんでもないことを口にしていると魔王は思う。顔はみるみる燃え上がりそうに火照ってくるし、しつこく抵抗する舌は今にも痙攣しだしそうだったが、スタンは必死に言葉を続けた。一生分の勇気をぶちかますとしたら、きっと今この時しかないと思ったから。
「それをなあ、いくら言わんかったとはいえ妙な誤解をしおって! くそ、だいたいなあっ、余が今さら、お前の一部を、欠片すらも取りこぼすものか! 全部食ってやらずにはいられんからこそ、ここまでお前のためにやってやっとるのだろうが分からずやのトーヘンボクのニブちんめが! それが、お前自身に都合が悪かろうと関係はない! お前の全てを掌中に収め、め、めめ愛で続けることこそがっ、余の願いだ! もうそれしか心に残っとらんのだ! 余をそうさせたのはお前だぞ、ルカ! お前はっ……、未来永劫余の子分で恋人で伴侶だ! わかったかっ!!」
「あわわわわ」
一世一代の告白に、なつかしい仕草でルカは手に口を当てた。もう一人のルカを抑えておく意識すら吹き飛ぶほど、魔王の答えは破壊的だったらしい。その手から滑り落ちるように解放されたベスト姿の少年はといえば、目を回したまま、ころんと草の上に横たわっているのみである。
「……ていっ!」
「あっ」
頭はゆだり切ったままだったが、スタンは恋人の隙を見流さなかった。抱えこまれていたかぼちゃを、掌底で思い切り打ち抜く。
すっぽぬけた丸いそれは冗談のような勢いでしげみの中にころがってゆき、どこに行ったか分からなくなる。と、ルカを取り巻いていた白光の帯が完全に掻き消え、一気に力の抜けた体が膝から崩れ落ちた。
「う、うそっ……」
それでもなお、マントの少年は往生際悪く身をひるがえし、草を掻いて逃げようとするので、
「遅い!」
背後から飛び掛かったスタンは、首を抱え込むようにして小柄な相手を腕の中に引き倒す。
「やめっ……」
「できぬ相談だな!」
もがくルカの首元の止め紐を男は荒っぽく解き、身を包んでいた黒マントを強引にひきはがす。捕われた動物のような細い悲鳴が上がったが、構っていられない。スタンはそのまま、自分の体格には小さすぎるマントを肩に放り投げるようにひっかけ、思い切り息を吸い込み、腹の底から叫んだ。
「トリックオアトリート!」
「えっ」
とっさに固まった少年の耳に、口元を寄せて男はにやにやと、思い切り魔物らしくした声色で囁いた。
「どうする、子分。菓子の持ち合わせは? ないよな? そこでのびている方の子分を引きずり出すのに、渡されたパイをその場で使用したということはそうなるよな。今宵この夢世界はハロウィンとやらのルールで動いているのだろう? ならば、菓子の持ち合わせのないお前は今、余のイタズラからは逃れ得ないということだ。観念しろ、ルカ……!」
「……!」
「ククク、一方的に自分がジャックなどと思い上がるからこうなるのだ。余を騙されっぱなしのマヌケな悪魔と一緒にするなよ? これで、今度は余がジャックだ!!」
宣言しながら空いている腕で適当にマントを翻してみせる。魔王が身につけるとつんつるてんにしかならないそれでは、全く格好はつかなかったが。
「……! ……僕は。君に騙される、の?」
「ああそうだ、この小悪魔め。お前が悪魔というなら余はそれを越える大悪魔になってやろうではないか。だからお前も対抗し続けろ、余の伴侶にふさわしくな!」
「……。なんだよ、それ。そんなんしたら、二人してどこまでも超絶ワガママ悪魔になっちゃうじゃないか……」
ルカの声が、歪んだ。かすれて湿っていく吐息を感じながら、抱えた腕で相手の身体を軽く揺さぶってやる。まるで、ぐずり出した子供をあやすかのように。
「だーかーらー、そうしろと言っておるのだ。まったく何をこんな夢の奥底でくすぶっている、くだらん。ここまでこじらす前に、最初からもっと素直にワガママ言いまくればよいではないか! 余はこの程度で色々と放り出すような根性なしではないし、お前の言動がどうかと思えばちゃんと言うさ。だいたいなー、余に夢見すぎなんだよ、おまえ! なんだ優しいとかマジメとか! 訂正しろ、こちとら魔王だぞ!?」
「めちゃくちゃだよぉ……」
ルカの声は半分笑っていて半分泣いていて、今にも決壊しそうだった。ひく、ひくと抱きこんだ肩が揺れる。スタンは低く笑う、ついでにひどく穏やかな声が出てしまった。
(ああ、いやだな。訂正できなくなるではないか!)
「余は最初からこうだぞ。知らなかったか、ルカ?」
閉じ込めた子供をきつく抱きしめると、首を押さえたままの腕にぱたぱたと雫がいくつも落ちてくる。小さな手が伸びてきて、その腕をぎゅうと痛いくらいの力で掴むのが、なぜか魔王には何よりも心地よく感じられたのだった。
気づくと今夜のかぼちゃ頭たちとベストのルカが、半ば没しかけた月を背に整列していた。大きく手を降るアイドルも、マッスルポーズのレスラーも、扇子ですました仕草の娘も、クイックターンを決め続けている学者も、やれやれと肩をすくめる勇者も。みるみる金の光粒へと姿を変え、スタンの視界の中にある自身の手足へと吸い込まれていく。
「……!」
残されたルカも、夜明け間近の空間に光となってほどけていきながら、笑む口元だけを”よかったね”と動かしたのを最後に、粒子に変化し楽しげに舞い踊りながら、魔王のもとに帰ってくる。その光景を呆然と眺め、スタンはやっと理解した。
「そうか、あれらは……」
自分の夢の一部であり、自分の中にいる仲間と恋人のイメージであったのか、と。
「……ふん。おせっかいなヤツらめ。まったく誰に似たやら」
しばし感慨に浸り、スタンは顔をひとつ振って気を取り直した。余人の気配が消え、かぼちゃの魔物も姿を見せず、少しずつ青みを帯びてくる空の下に周囲はすっかり静まり返っている。
「と、なると、だな?」
自分の顎の下でようやく呼吸を落ち着かせたルカに、スタンは意味ありげに声をかけた。
「そのかっこうは余の真似か?」
「……」
少年は決まりが悪そうにふい、と顔を背けた。マントをはがした下は彼にしては珍しい黒づくめで、しかもシャツは大きく開襟しているし、足元は漆黒の革靴である。どこかの誰かさんに良く似た格好だったのだ。
「ふふん、なかなか似合うではないか!……そうか。お前の中にも、余はいるのだな?」
「……あたりまえだよ。君の影響でなきゃ、あんな思い切ったことできなかったよ……」
恋人は手の内を全て暴かれてしまったことを、非常に悔しがっているようだった。むすりと半閉じの目も、とがった唇も分かりやすくふて腐れていて、いっそ微笑ましい。
「そーかそーか、ククク……そうなるとさっきまでの煽り言葉や戦い方も、余を意識したものなのだよな、全部? うん?」
「……うー、なんか猛烈にはずかしくなってきた……お願いだから忘れてよ、スタン……」
「聞けんな、ワハハハハ! まー、夢の外に記憶を持ち出せんらしいのが非常に残念だがな! いやあ、愛いものではないか、ああ懸命に真似をされるというのは!」
「もおおお! いいから忘れてってばぁ!!」
笑み崩れながら恋人に手の甲をつねられていると、視界の端にきらきらとゆれる鮮やかな光が飛び込んできた。ああ、例の「夢の端」がすぐそこまで来ているのだなと魔王は思う。背中に日向の温かさを感じ、満足感と共に目を閉じようとして、ふと気づく。恋人が心の奥底に隠してしまおうとした、「ワガママな」ルカにこうして触れられるのは、あとわずかな時間だということに。
そこからのスタンの行動は素早かった。ぐい、とルカの首もとの腕をずらし、強引に顎を上げさせる。
「いっ、スタン!?」
もう片方の手で顎を固定し、屈みこんで顔を近づける。意図を察した碧の目が大きく見開かれるのに、
「ちょっ」
「抵抗するな?」
くすくす笑いながらそっと唇を寄せ、目を閉じた。
「これが余のイタズラであり、……ワガママなのだから」
甘く柔らかいものに触れた、という感覚を覚えた瞬間、まぶたの裏まで明るい光が染みとおり、意識はぼんやりと焦点を失っていく。
(ああ……もう終わりか)
名残惜しさに、スタンは腕の中のぬくもりを、完全に意識が途絶えるまで大事に抱え込み続けた。
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