第十五話〜安眠〜


「まったく、なんって言うか、ホントに偏屈よね」
「そうでもありませんわ。良く協力してくださっている方です。無口であられるだけですわ」

月の下を巨木へ向かって歩きながらのお話。
それは、なんのこともない、普通の会話だったと思う。
きっと自分には、一生涯ありえないと思っていた穏やかな時の流れ。
自分にはもう訪れる事は無い、もう、最後の最後まで来る事は無いと思っていた、普通の普通すぎる話だった事を記憶していく。
私は、普通に生きていける道をやめた。
魔法社会に生まれても、普通に生きていこうと思えば生きていける。
魔法なんて習わず、普通に里に下りて、普通に生きていく事だって出来る。
そりゃあ代々魔法使いをやっている家系とかなら、そんなものは許されないけど、私の家は代々とかじゃなかったし、家系のうちでも何度か里に下りて普通に過ごした人だって居ないわけじゃない。
それでも、私は魔法使いという種族を選んだ。普通の人をやめて、"人間"って言うのを放棄して"魔法使い"という『生物』である事を選んだんだ。
それに、後悔は、きっとない。無いと思う。そう決めてきた。
後悔なんてしない。憂いなんてない。魔法使いでしか出来ない事をやって行こうって、そう決めたんだ。
だから、普通に生きていけなくっても。そう考えて生きてきた。
普通の生き方なんて、とうに忘れかけて。
普通のあり方なんて、自分には関係ないと割り切って、ここまで来たんだ。
でも、今はなんとなくソレを感じている。
自分には関係ないと割り切っていた事。
自分には、恐らくは二度とは訪れず。手には入らないものと割り切っていた"当たり前"。
多くの人が求めてやまない"刺激"というものがある。
でも、あんまり刺激とかは実は関係ない。
単純に、そうでありたいか、そうありたくはないかの違いでしかない。
普通に生きていく事が大変だって、誰もが何時かは知る時が来る。
そうなったとき、先ず考えるのが"当たり前"に過ごせていた頃だ。
魔法使いとしてしっかりとするまでの私は、確かに"当たり前"を生きていた。
それに不満は感じなかったし、刺激が欲しいとは特に思わなかった。
だって、何時かはこれはなくなるものだって確信していたから、この"当たり前"を、何時の日か、必ず思い返す時が来るのだと、そう考える時が遅いか早いか、必ず来ると確信していた。
そう、態々当たり前の日常に、繰り返しのような毎日に"刺激"を求める必要なんて、ない。
何時の日か、何も変わらなかった日を思い返して懐かしむ日が来る。そんな、刺激なんて求めている暇もないような日が来る事を、必ずその日が来る事を確信している。
だから、私はきっとやめたんだ。
理解できる間に、もうそう考えられる暇も無い日が来るより先に、人間で、日常生きていける事放棄して、魔法使いになって、今、こう生きている。
でも、今またこうしている。普通に話しているじゃないのよ。
それが、なんだか、無性に嬉しかった。
二度と手に入らないと確信していた事が、何気なく手に入っている事が、何だか、普通に嬉しい。
だから言葉も弾んでいるんだわね。
手を引かれて歩いている、横に立つ嶺峰さんに魔法使いである事も忘れて話してる。
この時だけ、魔法使いなんかじゃない、アーニャ=トランシルヴァニアとしてお話している。
忘れてはいけない事がある。覚え続けていなければいけないことがある。
私は、魔法使いである。それは、忘れてはいけない。忘れる事は出来ない。出来ないけど。
今は、忘れていたい。私は、アーニャ=トランシルヴァニアなのだから。
横を歩く白い女(ひと)を見上げてみる。
笑ってくれてる。見上げるたびに笑いかけてくれる笑顔は、相変わらず苦手で、でも結構嬉しくて、心和む気分になっている。
月の光が強い。
まぁ銀壁の巨体、"鋼性種"って言ったっけ。アレが月の光を弾くほどだったのだから、相当に強い月光だったには違いないからかもしれないけど、彼女の身体が淡く光っているようにも見える。
白いワンピースが弾く月の光は蛍火のように。暗く、けれど暖かな光が降り注ぐ帰り道を、照らし出すようにして、巨木の元まで案内してくれた。
とまぁ、案内してくれたのは別にいい。
いや、嬉しいわよ。こんなんでもね、私だって女の子だし、夜道は不安になったりもするわよ。
レッケルいたって、今は寝ているわけだし、私一人ぼっち。
いくら安全な学園都市内部とは言えど、不審者が居ないとは完全には言い切れないのが人の業。暗闇の中に何か潜んでいるんじゃないかなって思っちゃったりするわけですよ。
そう言う点では、二人ぼっちって心強い。
いくらか弱い女の子二人組みでも、一人は魔法使いで、一人は怪力、かもしれない女(ひと)だ。
二人合わせて百人力ならぬ一千力。不審者不穏者何でも来いって状況だわよ。いや、そういって本当に来られると困っちゃうんだけどね。
でもだ、ここで問題がある。
今私は学園在住中はここで過ごすと決めている巨木の根元、目立たない場所にテントを張って陣取っているんですよ。
いや、それはもう承知の事何ですけどね。で、羽織っていたローブとかをテントの中にまとめて放るんだけど、その背後。
私の真後ろから、とっても良く知っている視線が、ずーっと見ていらっしゃるんですよ。それが誰なのかなんて、言うまでもなし、かな。

「あの」

にっこり笑顔で小首を傾げるのは、ここまで送ってくれた嶺峰さん。
レッケルをテントの低位置へ寝かしつけて、ローブも放ってラフな格好になったところで、漸く振り返って彼女の方へと振り返る。
振り返っても、彼女は相変わらずに笑顔笑顔で小首をかしげたまま。まったく、まさか本当に気付いていないんじゃないでしょうね。

「嶺峰さん?」
「はい、何で御座いましょうか。お手伝い、致しましょうか?」
「いやね、その、そうじゃなくて。嶺峰さんは自分の家に帰らないの?もうこんな時間だし、親御さん、心配するんじゃ」
「いいえ、大丈夫です。私(わたくし)、一人暮らしですから」
「いや、そう言うんじゃなくて。もう遅いでしょ?いつまでも私に付き合っていたって」
「ええ、ですから一人で帰るのは恐ろしゅう御座いますので、今日はアーニャ様と一緒に一夜を過ごしたく思いますわ」

場の空気が停止する。
今言った言葉が、はっきり言って理解出来ない。
Verstehen、よーっく考えてみましょう。まだ魔法使いが負けたわけじゃないわ。
今、彼女は一人暮らしだって言った、うんそれはいい。一人暮らしなら門限とかは無いだろうし、一安心できるってものよね。
で、問題はその後、彼女の言った問題発言だ。
一夜を過ごすって、何よソレ。男が女を落とすときの発言ならまだしも、いや、まだしもって言うか普通に引くわよそんな事言われたら。
でも、私は女で嶺峰さんも女の人であるわけでして、それはもう綺麗な方で、しかもテントは狭いって言うか荷物多いし、確かにちょっと私の体格より大きめで余裕のあるテントを持っては来ているから眠ろうとすれば二人は眠れますよ。すし詰めだけれど。でも、ソレって云うのは即ち。

「宜しいでしょうか?」

でもってあの会心の笑顔。細められた視線に、僅かに開かれた唇。一番不安にさせてくれ、けれども一番心和やかにしてくれる笑顔で見てくるもんだから、言葉に詰まっちゃう。
断る用件は、はっきり言ってないわよ。
だって断る必要ないもの。魔法使いって事を知っているから、むしろ一緒に居てくれた方が私としては本心不安は無いわけなのよね。
いや、彼女がそれを口外する可能性は一切無い。その点では、彼女は重々信頼できる。
だと言っても、一緒に居れば居たで、長くも無く短くも無いお付き合い、かつ彼女は彼女で嬉しそうだから、その、別にいいんだけれどね。
いやいや、何を仰るアーニャさん、いいわけないじゃないのよ。拙いでしょ、どう考えたって。
何を考えているのとかは聞かない様に。期待もしていない答えが返ってきちゃったら、一体全体どうすればいいのか解んなくなっちゃうわよ。
いや、別にこれと言っての考えはありませんわよ。ホントに。
あれやこれやと考えているうちに、何時の間にやら傍らに気配。
気付けに頭をぶんぶん振るって直視すると、目の前も目の前。まさに目前と言う表現がぴったりな距離で、嶺峰さんが小さく微笑んでいる。
深紅の瞳を細め、不安定になっている私の心情を覗き込むように、いや、ひょっしたら楽しむかのように覗き込んできている。
楽しんだりって言うのは無いとは思うけど、今のこの状況なら、そう言う考え方も出来ちゃうかなって思うわけよね。
嶺峰さんの手が伸びて、私の背後に回される。
これまた手際のよろしい事で、嶺峰さん、テントの中に手を突っ込んで的確に丁寧に荷物を分別していっている。
確かに、このまま嶺峰さんにお任せしてテントの中身が綺麗になれば二人分の寝るスペースぐらいは余裕で作れる。と言うか、全然大丈夫だ。
ああ、ちなみに。魔法使いって言うのは、基本的にお掃除とかが苦手なタイプの人が多い。結構散らかっていたりする人のほうが多いのだ。
理由は幾つもあるけれど、やっぱり時間を無駄にしない性質って言うのかしらね。
お掃除の暇があったら自己を高める方に集中しちゃって、自らの周辺環境には結構疎かだったりするのよ。
現に、私だって今の今までテントの中の掃除はあんまりしていなかった。
だって、ホラ。結構いろんな事あったし、ネギの監視に鋼性種の出現、加えに加えて嶺峰さんとの出会いや、レッケルの大ポカとかで急がしいったらありゃしなかったんだもん。掃除していない事ぐらいは、自分でも大目に見てもいいと思うわけよ。
でも、そんなのさえも何処吹く風で、嶺峰さんはテキパキてきぱき荷物を左右へ。
まるで何処に何を分類すれば私が困らないのかとか、何処に何をおいたら危ないだとかを理解しているかのように、次々荷物を分け隔てていく。
と言うか、この時点で嶺峰さん、私の許可も貰っていないのに泊まる気満々だわよ。

「出来ましたわ」

ぽふっと、テントの真中にお座り笑顔の嶺峰さん。白いワンピースがふわっと広がって百合の花が咲いたみたいに、無骨だったテントの中が一瞬にして少女のお花畑のような華やかさに包まれる気分。
それはいい。嶺峰さんの髪の香りが充満して気持ちいいし、これならぐっすり眠れそう。
レッケルだって嶺峰さんの髪の匂いは嫌いじゃないだろうし、そも嫌いだったら近づきもしないレッケルが胸元に抱かれても全然平気だったんだもん。髪の香りは折り紙つきって事よね。
でもでも、ソレとコレとはお話が別途だわよ。
幾ら荷物をはけて広がったとは言えど、結構頭身の高い嶺峰さんと私ならまだまだ十分とは言えない。
そんなせまっ苦しいテントにうら若き乙女が二人っきりで密着状態で朝まで睡眠。
それがどれほど危ない事なのか、彼女、ちゃんと解っているのかな。
あ、あの笑顔は絶対解ってないわ。って、ひょっとして危ない事を考えているのって私だけかな。うわ、どうしよ、顔赤くなってきた。
顔を抱えてぶんぶんぶんぶん。眼はきっとぐるぐるしているし、見るからにギャグ顔である事間違えなしの状況だ。
先日の変な真っ黒い四角錘に躓いて思いっきり鼻を潰しちゃったときに出た奇声も、私の生涯最大の汚点ベストテンにランクインする勢いだったけど、今のこの状況下に悶え、うろたえている私も十二分にランクイン可能なてんぱりぶりだわ。
と、唐突に顔の前が真っ白くなって、すんごく柔らかい気持ちになった。
顔を挙げてみる。そこに私の顔を胸元へ鎮めるように抱きかかえて、あの笑顔で笑い続けている嶺峰さんが居た。
結構、力が強い。そう思って、首元に回されたての細さを直接実感して、それは気のせいなんだと確信した。
本当は力なんて込めていない引き寄せるかのような抱擁だった。ただ、唐突な事で私の身体が強張っていたから力が強いって感じただけで、本当は首から背中に回されている手に、力なんて込められていない。
その、愛しそうに抱きかかえる姿は、以前修行の地であるロンドンを師と共に安行していた時に見た、大きめの絵画の一枚にあったかのような状況に、とても酷似している。
その所為か、気持ちが暖かい。抵抗すれば脱出できる抱擁だったけど、勿論、そんな無粋な真似はするつもりもない。
何だか眠い。目の前がぼやけている。
でもそれは眠いんじゃなくて、でもそれは眠気から来るぼやけ眼なんかじゃなくて、抱きかかえられて、その柔らかで、どこか懐かしくも悲しい胸元で、静かに泣いている、私の涙の所為だった。
ぽろぽろ泣いていた。普通の、なんでもない事だって言うのに、どうして泣いているのか理解出来なかった。
嶺峰さんなら、理解出来ない説明できてしまうんだけど、自分の事だもの、理解出来ないじゃ、済まされないって言うんだけど、どうしても理解出来ない。
抱かれただけで、なんで泣いているのか。
抱きしめられているだけじゃないのよ。優しくて、柔らかで、ふくよかで、お母さんみたいな抱き方で抱きしめられているだけだって言うのに、どうして、嗚咽もなく、悲しくもなく、ただ、ただ涙だけが溢れてくるんだろう。
静かに髪を梳かれる。
繊細な指使いで、尊いものを撫でる様に、一度だけ彼女の手が私の髪を梳く。
その一動だけで、本気で泣きそうになった。本当に、子供みたいに泣き喚く一歩手前だ。
だからぎゅっ、と。その白いワンピース姿の女(ひと)の胸元に、私も同じ様に彼女の背中へ手を回して、顔を胸元へうずめるように泣き顔を隠した。
情けない顔なんて、誰にも見せるわけにはいかなかったから。泣き顔なんて、誰にも見せてやるもんですか。
彼女は何も言わない。どんな顔をしているのかは、この状況からは判らない。判らないけど、きっと笑っているんだろうって確信は出来ていた。
彼女は、間違えなく笑っている。
侮蔑、嘲笑、哀れみの笑顔ではない。かと言って喜び、歓喜、幸せの笑顔でもない。
ただ笑っているだけ。こうしていると言う、私を抱きしめられていると言うそれだけに、きっと笑っている。
それはきっと、私たちには理解出来ない感情だと思う。
喜怒哀楽の何れでもない感情。私たちみたいな普通の生まれの常人的感情表現しかしてこなかった人では、一生涯理解できる事は無い。
けれど、とても尊く、とても穏やかで、そして、きっと、とても暖かな。
そんな笑顔だって、眼一杯に涙を湛えて、しっかりと嶺峰さんのワンピースを両手で握り締めながら、その胸元で思っていた。


恥ずかしながら、わたくしアーニャ=トランシルヴァニア。十歳にもなって、七つ、八つも上の女の人に抱きしめられながら眠ると言う、十年人生初の出来事に困惑中でありますです。
お母さんにもされたことも、強請ったこともないのよ。
詳しく説明いたしますと、ちょっと目線を上目遣いにすると、静かに微笑みかけてくれる女の人の顔が見えるって事でしょうか。
膝を抱くような格好の女(ひと)と、その膝と両手の間に挟まれるかのようにして僅かに抱かれるかのような私。
向かい合って、私の視線はまっすぐだと、彼女の胸元で。
彼女の視線から推測すると、きっと、そんな胸元ばっかり見つめっぱなしの私の顔がよっく見れるもんだから、私の顔はきっと真っ赤だ。だって、自分でも紅くなっているって熱を帯びているから感じられる。
そんなのに堪えながら眠る事なんて出来るわけも無いから、何とか離してもらおうと思って視線を上げるんだけど、その度にあの笑顔が向けられるもんだから、私は視線を下げてまた同じ状況だ。
まったく変化ってものが無い、堂々巡りの繰り返し。
流石に何時までもこんな状況で居るワケにも行かないもんだから、とりあえず、色々話してみようと思う。出来るだけ顔は見ないように、出来れば顔を見る必要は無いように。

「あの、嶺峰さん?」
「なんでしょうか」

さて、いざとなると困った。この状況下で話してもおかしくないお話って言うものがまるで見当たらない。
何を話しても不釣合いになりそうな状況でもあるし、でも、こんなチャンス、きっと滅多に無いものだから、出来れば聞いておきたい事だって、結構沢山在る。
あのキノウエって人だって、聞きたい事があれば、嶺峰さんから聴けばいいって言っていた。
彼女がどれほどのことを知っているのかは判断できないけど、どれほどを知っていようとも、私は知れない事象だ。知っておいても、きっと損は無いとも思うんだけど。
果たしてソレは、私が聴いてもいいようなお話なのかな。
私だって魔法使いなのだから、自分の事はあんまり話したくはない。
魔法使いにとっては、過去なんて邪魔なものでしかないし、自分の事だって、むやみやたらに話していいものでもない。
それと同じように、彼女の事もまた、無闇に聞いて良い事じゃなかったとしたら。
そう考えるとますます何も聴けなくなっちゃう。ただ黙って抱きかかえられたままで、こうしているだけでしかいられない。
そんな、躊躇っているかのような私の気配に感づいてしまったのか、嶺峰さんの手が私の頭に回されて、あの胸元へ引き込まれていく。
私を安心させるように、いえ、ひょっとしたら、見られていたら話す事が出来ないのかもと気を利かせてくれたのかもしれない。
確かに、見られていながら喋るのと、こうしていながら喋るのとでは、大きく緊張感とかが違う。でも、相変わらず何を喋ったらいいのかは判らなくて。

「アーニャ様、どうぞお話下さいませ。
私(わたくし)は長い間このように誰かと連れ添ってお話した事も、肌を触れ合わせた事も御座いませんでした。
ですが、今のアーニャ様になら、私、如何様にでもお話できますわ。だって、私の大切な方ですもの。お隠しするような事など御座いませんわ。
何でもお尋ね下さいましに。私の解る範囲内での事でしたら、如何様にでもお答えできますわ」

頭の真上で聞こえた声。
胸元に抱きかかえられて上を見上げる事も、視線をずらして、その顔を覗き見る事も出来ないけれど、きっと、今の嶺峰さんはあの笑顔だと思う。
誰かと居る事、誰かとお話している事、誰かと、こうして触れ合えている事。それが嬉しくて仕方なくて、だから、きっと微笑んでいると思う。
喜怒哀楽ではない、普通のただ嬉しくて笑うと言う喜びではなく、楽しいワケでもなく、ただ、嬉しいから、楽しいとか、喜んでいるとかとは違う、嬉しいだから。
だから笑っているんだと思う。私と出会って、こうして、何度でも。
それで心は決まったようで、全然心が決まらなかった。
やっぱり何をお話していいのかは解らないこうしていても、どうしていいのか解らない。
眼を閉じちゃうとそのまま眠れそうな穏やかさと温もりに包まれていて、でも、必死に何を聞けばいいのかで頭を回しているから眠気も何も吹き飛んでいて。
で、結局、たどり着いた結論は、たった一つだった。
そう、たった一つ。あの、キノウエと言う男(ひと)の時と同じように、核心を突くような、けれど彼女の深くを抉るようではない言葉を、一つ、紡ぐ事にする。
まったく、とんでもない心境の変化だわね。朝、カフェでお茶を飲んでいたときとは、まるっきり逆じゃないのよ、私。

「それじゃあ一つだけ聴くけれど、嶺峰さんって、どんな事していた人なの?」

何だか要点を得ないようで、それでも全てを聴けるような言葉かもしれない。
嶺峰さんという人物が何をやっていた人なのか。
どんな生き方で、どんな風な生活をしてきていたのか。
なんでもない答えが返ってくるかもしれない。もっと、深い答えが返ってくるかもしれない。
それに応じるのは、他ならない彼女だ。彼女の意思で、言葉を聴いてみたい。彼女の言葉を、紡いでもらいたい。

「私の、ですわね。そうですわね。では、ちょっと昔の事からお話してしまいますが、それでも?」

胸元で小さく頷く。
声を出す必要は無い。完全な接触状態なんだから、僅かな動きでも、それが拒否か肯定かの判断は、きっと簡単だ。私が声を出す事は暫く無い。
ただ、彼女の言葉、一語一句に耳を傾けて、その意味を自分の中で昇華していくだけでいい。

「知っての通り、私(わたくし)は中等部一年生の頃、重病に相成りまして、入院を余儀なくされてしまいましたわ。
昔から身体は強い方ではありませんでしたもので...恥ずかしながら二年半もの間、集中治療を受け、かのご高名なお医者様のお陰で、無事生きながらえる事が叶いましたわ。
それでも、私はその当時、既に十五歳。それも間もなく十六歳になりかけの十五歳でしたの。
その年齢は、既に高校生と言っても過言ではありませんでしたわ。お医者様も、当時の担任の方も、そのまま高校へ挙がるように進めて下さったのですが...私も頑固でありまして、無茶と知りながらも、初めからやり直すことを望んだのです。
退院後はこのように中等部へ再入学し、元の中等部時代を取り戻そうと精良致しましたのですが...不思議と皆様が私とお話したりする時は何だか余所余所しゅう御座いまして...ですから、アーニャ様とお会いできた時は嬉しゅう御座いましたわ。
他の皆様の、誰しも見ることが叶いませんでした、再開と言うものを知りえたのですから。
今まで、誰一人の方として、二度とは私に話しかけてくださらなかったのにアーニャ様が、初めてでしたから。
あら、申し訳御座いません。少々最近の事ばかりをお話してしまいましたわ。
そうですわね。では、再入学してから、今日まで。二年半の事をお話したく思いますわ。
とは言っても、お話しても喜んでいただけるかどうか...ええ、過ごした日々は毎日が変わらない、時が止まったかの様に穏やかな日々の流れでしたわ。
朝に目覚め、自らの手で作りました朝食を頂き、制服に着替え登校し、授業を受け、お弁当を頂き、そうして帰り際にキノウエ先生の処へ立ち寄り、情報が得られたのならば何時もの姿で出かけ、鋼性種の方々と毎晩の様にお付き合いいたしまして、そうして帰っては、また朝まで眠りにつく。この日々の繰り返しでしたわ。
変化はなくとも、良い日々でしたわ。平穏とは、ああ言ったものなのかもしれませんわね。
在った事と言えば、そう、大きく衝撃を受けるほど大きな出来事と言えば、やはり、アーニャ様でしょうか。
ええ、貴女様と夜の木の下で出会い。次の日に出会い。そうして、夕暮れに私へ話しかけてくださった事。
全て、この二年半の間、願っていても願わぬように、叶っていても叶わぬように、思っていても思わぬようにしていた全てが相成った時なのかもしれません。
今の今まで、全て覚えている事の中でも、アーニャ様と共に過ごした、この時。今日と言う日、間もなく半日が経とうとする時の内、何よりも、得がたかったものと確信しております。
アーニャ様、改めて感謝と敬愛を。貴女様の出会い、それが私に光を与えてくださりましたわ。
ふふふ、不思議なものですわね。夜のお方が昼も夜にも生きていた、半端者の様な私(わたくし)に光を与えてくださるとは、思っても見ませんでしたわ。
ああ、明日はもっと良い日になりそうな気が致しますわ。アーニャ様のお陰ですわね」
告げられていく今までの日々。それが、どれほど不変な変否(かわらず)の日々であったのかなんて、聴くまでも無い。
彼女の生きてきた日々。そこに、魔法使いの様な日々の変化のようなものも、物語の主人公のような日々の変わりさえもない。
当たり前のような日々の流れ。私が、少し憧れた、魔法使いでなければきっとそうして生きていた、当たり前の変否の日々。
きっと、彼女にとっては平穏な日々だったんだろう。
いや、誰からしてもそういうもの。変否の日々って言うものは、それは本当に平穏なものだ。
変わらない日々は刺激に満ち足りない日々かもしれない、私たちから見て、嶺峰さんの二年半の暮らしは、繰り返しの様で、それでも、私たちには到底想像だにしない日々がある、当たり前のようではない日々だったかもしれないけれど、彼女にとってはやっぱり変わらない平穏な日々だったんでしょうね。
でも、その変否の日々にほんの僅かな悲しみがある。
誰だって、どれだけ心を凍てつかせたヤツであっても、僅かに感じる事。
それを、嶺峰さんは感じていなかった。
周りの人から、世界からの拒否。
人の世に生きるにおいては、人に拒否される事は即ち、人の世から、人として生きていく世界から拒否されるも同意義。
それが、毎日毎日繰り返しのように彼女には降りかかっていたって言うのに、彼女はそれをまるで感じていなかった。いや、理解できていなかったと言っても過言じゃない。
それだけが小さな悲しみで、ちょっとだけ、手をきゅっと握り締めた。
彼女は、知らなくちゃいけない事があるんだと思う。
知らないなんてダメだし、知らずじまいなんて許されない。
彼女は普通に生きていける人なんだから、仮令、その存在感は深く、暗い虚を秘めているかのようでも、彼女は誰とでもこうやっていける筈。こうして、付き合っていっても構わない筈。
これは魔法使いとして、マギステルとして生きていくものとしての制約に反している事は知っている。
誰かの為に、何かの為に人間を止めた私たちは、一人の為に全力尽くす事は出来ない。
でも、全力は尽くせなくってもまぁ、それなりに普通の事ぐらいには力を貸してあげてもいいかなって思うのよ。
そう、決めていたはずだ。マギステル・アーニャとして、アーニャ=トランシルヴァニアとしての魔法使い。
皆に、夢を与えて挙げられるように、彼女にも、小さな夢ぐらいは与えてあげたい。
でも、それは口に出して言うようなことじゃないので、黙ったままやる事にしよう。
告げたら告げたで、彼女は何だか浮き足立ってしまいそうな気もしないでもない。
こう見えても彼女、結構顔に出るタイプなのだ。だから、私が後押ししてあげるのはほんのちょっとの背中。
いつも通りの嶺峰さんを、きっと多くの人へと導いてあげたい。
と、そう思ったところで、小さな吐息が聞こえ始めた。
それと同時に、抱え込まれていた手に込められていた力が僅かに緩んでいる。
そうして、その柔らかな胸元から顔を離して、彼女の顔を見上げてみると、幼子みたいな可憐な笑顔で嶺峰さんはすっかり眠り込んでいてしまった。
本当に、私より年上なのか疑いたくなるぐらい幼く、でも、愛らしくも愛でるには、あまりに清廉すぎて、私では到底触れる事も許されない、宝石の様な、綺麗な笑顔だった。
でも、何だか離れて眠るのも不躾だし。何より、初めて見せてくれた笑顔以外の表情が、こんなにも幼げで小さなものだったなんて知っちゃったら、離れたくても離れられなくなっちゃったのよね。
何だか妹を見守るお姉さんみたいな、そんな不思議な気分に陥る。
だから一度、小さくその頭を撫でて、幸せそうに笑った彼女の笑顔を見届けたあと、私も静かに、瞼を閉じていった。
夜の帳はとっくに落ちていたけれど、私たちにとっての今日と言う日の終わりは、この時初めて訪れた。
初めての安らぐような夜は、見知らぬ土地で出会った、見知らぬ、綺麗な人でした。

―――――

ちちちっ、と遠くの鳥の鳴き声を聴く。
それが朝雀の鳴き声であることを察して、目をゆっくり開いて、その差し込んでくる朝日に思わず顔を背けた。
そっか、私がテントを立てた場所って、東向きだったわね。それじゃあ朝日を取り込んだってしょうがないかな。
頭をぽりぽり掻きながら上体を起こす。
見た感じでは、うん、朝の婦女子の姿とは到底思えないような、何とも人には見せられないような格好だわね。
髪の毛はリボンで纏めたまま眠っちゃったもんだから癖になっちゃってるし、お気に入りの黒ローブもすっかりしわくちゃ。
しかも、あった位置が顔の下って言うからには顔にもしわの跡が残っている事間違えなし。
加えて上着は臍出し、右肩出し。スカートの方はぶわっと上がっちゃったまましわが付いちゃってまして、見る影も無い。
まぁ要するに、極めて女の子らしくない、酒を飲んで帰ってきたおーえるが、そのまま疲れ果ててベッドの上にぶっ倒れたまま眠り込んだにも等しい状況って事。
最後に、鏡を見れば、細眼でぼーっとしたままのマギステルとも思えない無防備な顔が見てとれるわよ、これ。
傍らにおいてあった筈の時計を見ずに捜す。
何時もの朝は大抵こんな感じだ。いや、何時もの朝がこの格好で目覚めるってワケじゃないのよ。何時もはしっかり寝巻きに着替えて眠っていて、掛け布団もちゃんとかけて眠ってる。
本日のような状況は、ロンドン修行中でも二、三度あったか否かってとこかな。
でも、だからと言って朝が変わる事でもない。
こっちに来てから数日、時計の位置は定位置だし、相変わらずの朝独特のスルーな動きで時計をまさぐる、まさぐるんだけど、どうにも定位置に在る筈の時計が無い。
どうしてないのかなーって考えていて、そんで―――ふにっ、と柔らかいものを握り締めた気がした。
ぼーっとしたままの頭で顔を動かす。
細められて、多分、瞬き程度の動きでもそのままもっかい眠気にいざなわれて眼を完全に閉じ、眠りに入ってしまうと言うその状況で動かした先。
私の手を握りながら、にっこりと、昨夜に見た笑顔と打って変わって、あの追いつく事の出来ない、嶺峰さんという女性だけしか浮かべる事の出来ない笑顔で、私を見上げている、あの女の人が。

「お早う御座います。朝もお早いのですね、アーニャ様」

驚くことは無い。朝、眼が覚めた時点で一緒に眠った人が居た事は重々知っていた。
だって、夜中中肌のぬくもりとかを感じていたんだもの。朝、目が覚めた瞬間から思い出していて、じっくり考える事もなかったからこそ、今こうして冷静でいられる。
いや、本当は顔とか赤いと思う。頭の中が朝だから何にも考えられていないだけで、体はこう言うのには結構敏感なのよね。いや、深い意味は無いからね。
こっくり頷いて、昨夜、嶺峰さんによって荷物の上に動かされた時計が眼に入る。
時刻は明朝の5時半。まだまだ朝も始まったばかりの、朝靄で煙り続けている時間帯。
まぁ早寝早起きって言うのは悪くないわけでありまして、ホラ、だって遅く起きているよりは、朝早く起きた方が絶対得だと思うのよ。
夜遅く眠るのだと、何時眠るのか何時眠るのかと追い詰められたような気分になっちゃうんだけれど、朝早起きすれば、もう一回眠るような真似さえしなければ一日の活動時間が何だか増えてくれるような気分になるのよね。
いや、それは遅くまで起きていても同じなんだけど、やっぱり周辺が明るいのとそうではないのは身体に感じるすがすがしさが違うってもんよ。
夜だと真っ暗で何にも解らない事とかもあるんだけど、朝なら外出しても外は十分明るいわけですから、いろんな場所に回っても平気。
何より、朝の静寂を一身に浴びられて得した気分に慣れるのが一番いい。人ごみとかが好きな人はあんまりいないだろうし、私だって当然苦手。そう言うわけで朝最高。文句も無しに朝を満喫したいわけなのよ。
さてと、そう言うわけならグダグダはしていられません。
朝の静謐は限られた時間帯のものであって、永続的なものじゃない。
限られている時間帯で何が出来るのか。そう言うことを考えれば、おのずと答えっていうのは出てくる。
今のこの時間帯は人通りも少なく、つまりは外出するには丁度いい。
ただでさえ日中は人目に付きにくい場所で根暗みたいに活動しているんだもの。昨日みたいな日は兎も角、何時もはああはいかないのよね。
それならそう言うわけで外へ。朝は私が自由に動ける少ない時間だ。自由な時間は大切にし、さて、行きましょっか。

 

寝ぼけ眼の私とレッケル。
唯一眼が覚めているのは、きっと、そんなフラフラ歩きの私と、まだ頭の上でうつらうつらしているレッケルの背後から静かに、でも、微笑みながら着いて来ている嶺峰さんだけでしょうね。
そりゃそうだわ。まだ朝のお目覚めをして10分も経っていない。
人間の脳みそが本格的に活動しだすのは目覚めてから一時間。まだまだ難読な考えをするには時間が必要なわけ。
でも、せめて頭の中は目覚めていなかろうとも、眼ぐらいは完全に目覚めさせて行動は機敏に出来るような事ぐらいは出来るようにしておくのが世の常だ。
と言うわけでありまして、学園都市の中でも一際大きく、水のきれいな湖前。
遠くの近場、言いえて妙だけれど、本当にそういった表現方法が一番合うと思う距離に、この学園でも一際モダンな造りの建物が浮き島のように浮かんでいたりする。
あれだ、モンサンミシェルと、そっち系にも似た構造の建造物だって判断できる。
だって水の上に浮いてるんだもの。水の上に浮いていれば例外なくモンサンミシェル系なのかと聴かれるですね、やっぱりそれは否なわけなの。
まぁ、似ていると言う点だけとって、さて、朝の日課でも始めましょっか。
石段を数段降りて水辺に腰掛ける。靴を脱ぎ、靴下も剥いで、素足を一番下の石段、湖の水が浸かったり退いたりして常にその石畳の表情を変化させている石段。
そこに脚をつけると、一気に頭の中が冴えた。
肌が敏感になっているのか、冷水を頭からぶっ掛けられたみたいな寒気が電撃になって足の裏から脊髄通って脳天直撃。
それで十分に眼が冴えるんだけれど、それも所詮は寝ぼけた身体が突然の衝撃で吃驚しただけ。本当の目覚めには、まだまだ遠い。
水をすくって、顔へ押し当てる。思いっきりばっしゃーんって音がするぐらい思いっきりだ。
それで十分に眼が冴えた。顔に当たる水の感触は心地いい。脳みそが唐突な刺激で強制覚醒された後での水の感触だから、さほど刺激は強くなく、今の私にとっては眠気とかを吹っ飛ばすには十二分。
これで頭を左右へ二、三度シェイクすれば、頭は綺麗さっぱり覚醒するんだけれど、はてさてと、その前にしなくっちゃいけない事がある。
むんずと頭の上に手を伸ばして、つるっとして、なおかつちょっと冷たい肌触りの、でも、生き物独特の生暖かしさと言うか、生きているって言う証をしっかり出している、細くてながーいモノを引っつかむ。
同時に聞こえたのは、何時もの朝、私が眼を覚ますと、傍らでぽけぽけっとしながらまだ夢心地で眠ってらっしゃられるレッケルの寝言。聴いている方が、なんじゃそりゃーって突っ込みを入れたくなるような内容の多い、夢妄想バリバリの突っ込みどころ満載のお言葉だ。
それを無視して、大きく振りかぶった。
私の頭は極めて冷静、もぉ頭の中身も、身体も本調子。
脳みそが完全覚醒するまでは後もう暫く時がかかるんだけれど、一応朝の覚醒儀式によって、スルーな動きしか出来ないような状況は脱している。
まだまだ私の手の中ですぴすぴ言って二度根を満喫中のレッケルさん。
こーゆータイプは口で言ったところで通用しないのは知っている。
まぁ、仮にも水の精霊、ソレに加えて水辺には強い蛇と言う性質も備わっていますから。二、三度肩をこきこきっと鳴らして。

「レッケル」
「ふみゅ?」

ホエホエっとした声の後、迷うことなく上半身を弓なりにしならせて、大きく振りかぶって投擲。
遠くへ投げる事を目的としたからか、綺麗な放物線を描いて飛んでいく白い蛇。飛び間際、うるるんとした眼差しが私とばっちり眼が合ったのはあえて言わない。
いちいち付き合ってあげることもない、第一、この作業は結構見慣れた光景なのだ。
ウェールズで同居中も、なかなかあの白蛇が目覚めないときは、問答無用で氷を張ったお風呂場に投げ込んでいたりもした。
眼は、間違えなく覚めるだろうから。したがって、今回も同じように、いつものよーに、私らしくレッケルらしく。
ぼっちゃーんと言う音と、みゅーんと言う声。
声が後と言う事は、投げ込んで湖に突入した後で叫んだってことだわね。どうでもいいけど。やや呆れたような、まだ眠そうであろう眼差しのままで投げ込んだ場所を眺めている。
足元の波打ち際の動きが激しくなるところを見ると、いい感じでもがき足掻いているって処かしらね。それは結構、完全に頭も冷めるでしょ。
そう言うわけで、呆れ笑いのような苦笑を浮かべたままで、背後に振り返る私の後ろでは、しわ一つない真っ白のワンピースを風に靡かせ、その風に乗る綺麗な黒髪をたなびかせ、そして礼儀正しくスカート前で両手を合わせながら笑っている嶺峰さんが、居た。

第十四話〜暴風〜 / 第十六話〜魔法〜


【書架へ戻る】