第十六話〜魔法〜


ぷるぷるっと足元で小さくレッケルが身体をゆする。
普通こう言う動きで水をはけるって言うのは犬とか、体毛についた水をはける為にそうしなくちゃいけない生き物がやる行為なんだけどね。
つまり、鱗で全身を覆って、水をはける必要のないレッケルがしていいような動きじゃない。
本蛇曰く、気持ちの問題だそうなんだけれど。よく解んない。とにかく、まぁ、そこんところは後々重々聴いてみましょうかね。
で、それを足元でやっているレッケルを眺めつつも私は何をやっているのかと言いますと、何にもやってないわけ。
水の当たらない石畳の上に腰掛けながら、待ちぼうけ待ちぼうけ。マザーグースの本でもあれば、詩の一節でも読んで待ちたいような状況なのよ。
それどころか、このまま待ちぼうけし続けていたらまた眠っちゃいそうな眠気の中にいたりもする。
でも、一回起きたって言うのにもっかい寝る事ほど起きた意味を無碍にするような行為はない。
と言うわけで、なんとか眠りにつかないよう、両足のつま先程度は湖の水につけて、絶えず刺激を体へ循環させて待っているわけなの。
待ち人を眠りながら待っている事ほど失礼な事もないわけだし、そこまで不躾な私でもない。ちゃんと情緒って言うのは弁えている良い子のアーニャがこの私。
待ち人と言うのは言うまでもないわよね。
今現在、この明朝状況において私と付き合ってくれている人。
それは、この学園都市でもたった一人しか居ない。いや、学園長とかに言えばそれなりにネットワークとかは広がるんだろうけど、今回の私のお仕事は人手は少なければ少ない方が良いお仕事。基本としては、マギステル見習いである私一人でしなくっちゃいけない事なのよね。
愚痴を言う気は毛頭無い。
一人でやる方が気楽で良い時も、事実としてあるわけだし、私もどちらかと言えば他のマギステルの人とかと一緒にやるよりは一人でやる方が得意なタイプの魔法使いだもの。
皆に夢を与えられる魔法使いなんだから、一緒に仲間が居ちゃ、色々とメンタル面で気を使っちゃいそうなのよね。そういうわけで一人。それと、ちょっと後からも、多分。
でも、今は生憎一人じゃない。
ちなみにレッケルの数を数えていないのはレッケルは何処に行くにも一緒一緒だからなの。
最早一心同体と言いますか、一蓮托生にも同じような関係なのよ。よって、私とレッケルは一人と一匹で一つの関係、一つの存在なのだ。
そんな一つの存在である私と、今関わっているような人は、何度も言うようだけれどこの学園都市では今現在、たった一人しかない。
傍らにずっと付き添ってくれた、白いワンピース姿の彼女はここに居ない。
私が顔を洗って、レッケルを湖の彼方へ投擲し終えた直後にお腹がきゅるると鳴ったのは私と嶺峰さんだけの秘密。
そんな私を見て、彼女笑っていたけど、いやな笑顔じゃなかった。
まぁ、アレだわよ。何時もと同じ笑顔。相変わらず人を霞ませるような、笑っただけで世界を歪ませるような幽玄さを醸し出すって言う、あの笑顔。
それで何を言い出すかと思いきや、朝ごはんを持って来るって言って行っちゃった訳。
そして私は待ちぼうけで、レッケルと一緒に暇をもてあましているって事。
はっきり言って、私はじっとしているのは割に合わない。
常に何かを行動にして起こしておかなくっちゃ気が気じゃない性格なのよね。
テントの中でも常時活動中だし、外出すれば走って走ってやることの為に時間を割く。
思い立ったが吉日であり、行動は疾く早く行う事でよりよく時間と言うものが使える。
時間は無限にあるものじゃなくて、実は使用出来る期限の取り決められた賞味期限ってモノが存在する扱いにくい品物なのだ。効率よく消化していくには、無駄な事には使えない。
常に、常に行動を起こし、絶え間なく与えられていく時間と言うものを貴重に、大事に、しっかりと消化していく事が大事なのよね。
そう言うことで、こうやっての待ちぼうけって言うのはどうにも割に合わない気がする。
個人的には一緒に行けばよかったとも思っているんだけれど、それだと岸に向かって泳いでいたレッケルを無視しちゃう事になっちゃうもんだから、仕方なく嶺峰さんだけを行かせちゃったってワケ。
そうして今現在の待ちぼうけなんだけれど、これがやっぱり合わない。
頭にするする上ってきたレッケルも気にならないほどぼーっとしだしてきて、折角起きたって言うのに、眠気がまた襲ってきちゃいそうな気分にさせられる。
尤も、水に脚を交互に浸したり上げたりしている限りはそんな事も無い。
本当なら瞑想でもして魔力を高めたいんだけれど、朝目が冷めたばかりでの瞑想は危険だと、以前実感している。
あれは私の人生汚点最大の失敗とも言ってもいいかもね。従って、朝の瞑想はしない事にしているのよ。
内心ではぼけっと。けれども、身体は敏感に働いている。
周辺の気配配りには余念が無いらしく、僅かな音とかも絶えず耳の中から脳内へ情報へと返還して送り続けている。
正直言えば、こうやってぼぉっとしているのは危険な事だ。
どこで何がどう起こるのか予測の出来ない世の中だから、結構周辺には警戒網を強いておく事がお勧め。
私だって同様に、今現在ソレを張りつつ神経だけはしっかり覚醒させている。
それもこれも、ここでのお仕事関係。ネギだって今現在は早起きしないとは限らないわけだし、こうやっているところを見られるのは非常に拙い。
そんな事態を避けるためだから、こうして周辺には無意識でも気配を配り、レッケルにだって、絶えずテレパティアで周辺警戒のための、水膜結界網の展開を頼んでいるんだ。
今のところ、反応は何も無い。
学園の朝は静かで、遠くから聞こえる僅かな車の音ぐらいしかしない程度。
人の声とかは聞こえず、聞こえる生き物の声は朝雀の鳴き声と、黒ずんだ烏の朝の餌を求める声だけが聞こえるのみ。
あとは、そう、私が脚で水をかきあげていく音と、風に木々が揺れて漣みたいな音を出すのみだ。
それ以外の音は、精々、私のお腹の恥ずかしい小さな音と、レッケルの欠伸に引かれて思わずしてしまった私の欠伸による、耳抜き効果による一瞬の静謐だけだ。
私の何もしない時間だけが過ぎていく。
お腹は空で、嶺峰さんは来ないで、レッケルはまた寝そう。
加えて私の脳みそも、もう一回は眠りそうだわよ。
日の出の光を湖が弾く。地上の星と言う表現が似合うような、そんな、輝きに満ちた湖が目の前に広がり、その向こうでは雲の切れ目から光が地上へ降り注ぎ、朝靄を晴らしていっている。
自然のコントラストが、人工の構造物の美しさを際立たせている、この光景。
私は、こんな光景も結構、かなり好き。
人工では作り出せないものが人工で作り出されたものに加わっているのだもの。人間としては、感動しないわけがない。
ただ、一つ勘違いしちゃいけないのは、あくまでも自然界はいつも通りに日の光を与えて、いつも通りに朝靄を発生させているだけだ。協定関係なんて言うものは成り立っていないので、そこんとこは忘れちゃいけません。

「アーニャ様」

っと、唐突に背後から声をかけられて、吹っ飛びそうになるぐらい吃驚した。
頭の上に居たレッケルの感触が一瞬消えたところを見ると、レッケルも飛び上がるぐらい吃驚したらしい。
だって、私さっきも言ったとおり周辺に気配は十分に配っていたんだし、レッケルにだって水幕結界網の展開をテレパティアで伝えていたんだもの。
気付けなかった、では済まされないような万全状況で気付けなかった。それがどれだけ心臓爆発させるほどの衝撃を与えるのかなんて、言うまでもない。
そぉっと振り返れば、真っ白いワンピース姿に加え、朝には付けていなかった真っ白いつばの長い円形帽子を被って、駕籠組みのバスケットを両手で携えた嶺峰さんが、変わらぬ笑顔で、胸も肩も動悸はさせず、何時も通りの、私が知りうる範囲内での普通の出で立ちで、私の背後から、私を覗き込むように佇んでいた。

「...おかえんなさい」
「はい、遅れて申し訳ありません。走ったのですが、如何にせよ足が遅いものでして...どうぞ、アーニャ様から頂いてくださいまし」

そう告げられて私の横へ座り込む嶺峰さん。
座高が違いますもんだから、結局は私は見上げるような形のままだ。
でも、まぁ、目線を合わせてくれようとしてくれているって言うのは感じられるから、取り敢えずは良し。
慣れたような手つきでバスケットからほかほか湯気の昇っているおにぎりを差し出して、また笑顔を浮かべる嶺峰さんから、確かに、そのおにぎりを頂戴する。
それで一口。
うん、美味しい。中に何も入ってはいない、シンプルなお米をまあるくまとめてちょっと塩味を付け足しただけの、そんな素朴なおにぎり。
一欠けらに千切って、頭の上のレッケルにも施してあげたりもする。
米を食べる蛇なんて、なかなかにレアですわよ。まぁ見れないんだけど。
それは兎も角、妙に視線を感じている。その視線が向けられている先がどこかなんて、言うまでも無いでしょ。
私の傍ら。おにぎりを頬張っている私を空きもせずに見続けている視線は二つ。
二つの眼差しを余す事無く私に注いで、自分の事なんてこれっぽっちも考えていないような笑顔で、嶺峰さんはただただ私の方を見つめ続けている。
と言うかさっき走ってきたって言うけど、息も上がっていなければ、真っ白い肌には朱もかかっていない。汗すら見えず、うっすらともかいていないのはこの至近距離だからとってもよく解る。
本当に走ってきたのかと問われると、やっぱり本当に走ってきたと思う。普通にそう言ってたし、彼女が嘘とかを言うような人物には、短い間の付き合いなんだけど、とてもそうは見えない。
走ってきたと言うからには、走ってきたんでしょう。
一先ずそれは信じる事にする。と言いますか、彼女に対して未だかつて不信感と言うものを持ったような気がしない。
付き合いがまだそう言うのが関わるほど長くないっていうのも大きな理由かもしれないんだけど、どうにも彼女に対して不信を持つとかと言う感じが理解出来ない。
どうなればどのように不信感を抱けるのかとか、まるで理解する事が出来ないのだ。
まるで彼女そのものを体現したかのような妙な雰囲気。不信感とかと言うものではなく、もっとい深いのか、浅いのか、そも、そういったものとも決別するようなものなのかが判断できない。
判断できないって言うのなら考えなければいいだけのお話なんですけれど、伊達でやっては居ない魔法使いというものの気質。
考えなくてもいい事を余計に考えて自問自答の迷宮に紛れ込む事も珍しくは無いのです。

「お味、如何でしたでしょうか。久しく握ってはいなかったので、良い味が出たかどうか」
と、その声で我に返る。自問自答している時に、こう言う一言は正直引き戻してくださるわけで素直にありがたい。
いつまでも自問自答で無駄な時間を過ごすわけにも行かないわけで、立ち戻れればいつも通りのアーニャに戻って冷静頭。仰せられた質問にだって、ちゃーんと答えることが出来る。

「おいしくなかったら、食べないわよ」

そんなひねくれた答えしか出せないのは許して欲しい。
ホントは、すごく美味しい。飛びはねったくなるぐらいの美味しさだし、日本に来たからには朝はお米で迎えようとも思っていたわけだし、それがこう言う形で叶えられるのは正直に嬉しく思うし、そういった言葉を口に出したくもある。
それが出来ないのは、やっぱり魔法使いだからかもしれない。
昨日ほどてんぱっていないからか、どうにも頭の中身が冷静になっている。
傍らには、ホラ、相変わらず笑顔で、見れば見るほど綺麗で不安にさせてくれる女(ひと)がいるんだけど、彼女からは昨日ほど強烈な圧迫感、威圧感のようなものは感じていない。
ただ単純に慣れたのか、それとも魔法使いとしての気骨を取り戻したからこう言う考え方が出来るようになっているのかは解らない。
とにかく、昨日ほどではない存在感の中で、それでもちょっと幸せで、でも、自分のあっけらかんとした性格には嫌々で、それでも、傍らで笑っていてくれる人が居る事に、ほんの僅かに感謝を述べる事にした。
述べる相手が、誰かも解らないって言うのに、ね。

―――――

ぱきん、と口元へと運んだ黒ずんだ長方状の物体を噛み砕く。
そうして私が水晶を通して見ているのは、何時ものこの時間帯、この場所に着てから始まっている、神楽坂さんの視線を通しての監視観察風景。
ネギがしっかりマギステル・マギに向けての授業が常時順調であるか、マギステルとしてふさわしいか否か、何より魔法使いであることをばれていないかなどなんだけど。
残念なことに、バカネギは既にいくつかの制約を破ってしまっている。
特に魔法使いである事が知られていると言うのが実に痛い。
と、そこで私も同じなんだと自分で自分に突っ込みを入れてはいけない。
私はちゃんとする、ちゃんと消す。ちゃんと、魔法使いだと言う事を知られないように、覚えられないようにする。
魔法使いってそう言うものだって、いくつかの経験から知っている。
ネギの場合も、今は良しとしましょうか。いやね、ホントは全然ダメなんだわよ。魔法使いがばれているって時点で、厳粛な魔法使いだったら問答無用で魔法界へ通達、即オコジョ化決定と言う厳しい制約。
最も、今ではソレを実践している魔法使い自体は結構少ない。
魔法使いとは言えど、人格はあるし、ちゃんと感情だってある。感情があるから、慈悲もかけちゃうんだろうって思うわけ。
私も同じで、何も変わらない。
厳しい魔法使いを実践しようとして、ネギに任せている。
ネギがちゃんとできるように、ネギがちゃんとした魔法使いになれるようにってネギに任せている。
結局は、ネギの事を信じていたりもするんだわね。
いつかネギも気付くと、いつかはネギも魔法使い、マギステル・マギって言うのがどんなもので、あんたはどれほどの事を成さなくっちゃいけないんだって気付いてくれると、どこかで信じているからこそ、そのときが車では余計な口出しもせず、ただこうしてつらつらと進められている授業の中から読み取れるネギの魔法使いとしての資質を読み取っている。
もぐもぐと頬を動かしながら、つらつらとペンを進めていく。
こうして羊皮紙にペンを進めていると思い出すのは、やっぱり魔法学校で授業を受けていた時を思い出す。
ただ、その時と微妙に異なっているのは、一緒になって聞いている授業は私達にとっては国語で、彼女たちからしてみれば英語の授業風景だけ。
魔法学校と言っても、オール魔法の授業をやっている訳じゃない。
歴史に国語、生物に保険だって受けている。
ロンドンで修行中に街中で見かけたファンタジー小説があるけど、実際は魔法オンリーなんて言う日は一日だって無かったっけ。
かりかりかりかりノートへペンを走らせて、毎日毎晩それの見直しと予習。うん、今の学生諸君らとはあんまり変わんない。
将来ちゃんとした魔法使いになる以上、魔法以外の知識も持ち合わせていなくちゃ、いざ魔法を使ったとき、その魔法の理と相反する属性を持っているものから手痛い竹箆返しがくることだってあるのだ。
と、もう一つ違うところがあったわね。
私が今羊皮紙に走らせているペンが紡いでいるのは授業内容ではなくて、ネギの行動の逐一観察。観察表を書いているようなものなんだけど、これがまた、結構量が多い。
何しろサボっていた分まで消化しなくっちゃいけないもんだから、ホラ、ネギの事を監視していた簡易使い魔から仕入れた情報とかも纏め上げておかなくっちゃいけないわけよ。
もぉ休日返上の日曜出勤もいいところ。急がしいったらありゃしないわよ、まったく。
文句を言いつつ三本目。黒ずんだ長方形をペンを走らせていたとは逆の手で引っつかんでがぶり。味なし、コクなし、歯ごたえなしの乾いた氷みたいな物体を噛みしだいていく。
流石にもうそろそろ飽きてきたんだけど、これっもまた消費しなくちゃいけないものだっていうんだから驚きだ。まったく、何処のどいつよ、こんなものを魔法使いに摂取させるなんて考えたバカ。
あんまり解説とかは好きじゃないからしないんだけど、こいつの不味さは魔法界一って言っても過言じゃない代物なのよ。
いやいや、味だけで言えばこっち側でも十分精通する代物だわね、こりゃ。
どこぞの御偉い魔法使いの一人が作った高濃度の魔力循環系の一種であるらしい。
ドーピングとかは言わないで欲しいわね。これでも立派な魔法使いの必需品になりかけている代物なんだから。
こうやってしょっちゅう体内に取り込んでおく事で予め普段生活上でただ漏れ消費されてしまう魔力量を極端抑える事の出来るって言う中途半端に大したものだ。魔法使いも省エネの時代なのかねとも思うわけよ。
なお、嶺峰さんは学校へ向かった。何時までも一緒に居るわけにも行かないし、私にも私としてしなくちゃいけない事がある。
彼女だってそう。彼女には彼女でやらなくっちゃいけないことがある。
今は無理かもしれない事でも、いつかはそうなるのだと思っている。
だから今は普通どおりに過ごすのが一番。何も変わらないように生きていく事が、何より一番難しいことなのだから。
そう言うわけでもぐもぐと、それでもってつらつらと。口を動かし、ペン先を進めていく。
自分の考えを纏めるレポートみたいなものだから、書き綴っていくのはあくまでも客観的な意見のみ。
私情は一切挟まずに、魔法使いとしてみたときの眼差しだけで、授業中のネギの様子を逐一チェックしてゆく。
良い事は良いと、悪い事は悪いと、魔法使いとして計ってゆく。
本当は、誰かを計るとかと言う行為はあんまりしたくない。
定めるのは私たちではなく、本人であって欲しいと思うのは、きっと私だけではないと思う筈よね。
誰だって、自分を良く見せたいものだもの。私だって例外じゃなくて、自分を良く見せよう良く見せようと努力に努力を重ねてきた。
まぁ、でもね。それが報われるかどうかは結局のところ他者に定められなくっちゃいけないところが世知辛いわよね。
自分を認めるのは他者であって、自分が存在している意味を証明してくれるのも、やっぱり他者なのだもの。それが世の中、しょうがないわ。
ネギの頑張りを私が認めようと、他の多くの魔法使いが認めなくては意味は無い。
私が書き綴っていかなくっちゃいけないのは、多くの魔法使いの人に、ネギ・スプリングフィールドと言う"魔法使い"が"使える"のか否かを認知させる為の認知状。
ソレを書き綴るためには、一人の幼馴染である事は捨てて、多くの、有象無象の魔法使いとしての思考回路を以ってして、ネギを計らなくっちゃいけないんだ。
多くの魔法使いの代表としてここに送られ、一人の魔法使いを大成させるという事が、全体としての任務でもある。
最終的な決断を下すのは、多くの魔法使いに認められている魔法界でも五指に入る程の魔法使いの方々、魔法学校の校長先生もその一人なんだけれど、兎も角、その大魔道元帥って呼ばれている人達が最終的な決断を下す。
いわば私は使い走り。コレが終われば他の土地へ飛んでいって、今日も今日とてで困っている人を助けたり、自然災害の復興とかに手を貸したりするわけよ。
ここに居られるこの時が、私にとっては唯一の制限の多くが免除されているときであり、同時に、一番好き勝手には動いてはいけない時だったりもする。
完璧なマギステルとして行動を開始すれば、こんな風に一人で任務に付く事もなくなるだろうし、先輩マギステルの人について行って、まだまだ未熟な技術を学んでいかなくっちゃいけない。
独学で学べる事には限界があるから、良い技術は幾らでも取り込んでいかなくっちゃいけないの。
それでも、他の土地へ移動するときぐらいは私の魔法使いとしての道を進んでいく事が出来る。
夢を、与えてあげたいから。
か弱く、儚く、吹けば消え去るような夢でも、星を作ってその星が流れ消えていくのを見て、小さくとも、僅かであっても夢は持ち続けて欲しい。
そんなのが、私の願い。夢を失わないで、私が作る小さな星の通り道を眺めるだけでも、どうか、願うような祈りは費やさないで欲しいと思うのだ。
はてさて、いつまでも多重思考を回しているような余裕も御座いません。
水晶の中の映像が断続的になって、ノイズと砂嵐のような雑音が響きだしたところで映像が完全に途切れた。
明日菜さんに植え込んだ映像接続の魔法はネギが居るとき限定の代物。
それ以外でも発動は可能だけど、魔法使いが自分で自分にかけた制約を破ると手痛い竹箆返しが帰ってくるって言うのは最早言わずものがなの事跡。軽い制約破りなら知っているけど、まぁ、使うまでの事じゃないのでいいでしょ。
四本目を口に含む。ちょっと多めに摂取しちゃったのでこふこふっと息が詰まっちゃった。
大きく息を吸って深く深く深呼吸。裡側の精神状況の荒だち気味だった心裏の波を落ち着かせていく。
こうした精神の安定を無我で行えるのも、また魔法使い。
派手な魔法なんて、実際これっぽっちも必要ない。こうして心穏やかなであるのなら、小さな魔法も大きな効果を与える事が出来るのだ。
そうしたところで、裡側に用意されている魔力系の蓋を開放する。
口に含んでいた四本目を完全に飲み込んで、意識を向けるのは一心に奥の奥。魔力系の歯車を噛み合わせて回していく魔力の水を流し始め、その集ってくる魔力の多くを片手の平へと集中していく。
かざす先は小さく纏まった光沢を放っている小さな砕片の山。瓦礫の山とも思えるけれど、実はそうじゃない。
短く、いやいや、もう既に呪文自体は始めて彼らを生み出したときに完成している。だから、この時にしなくちゃいけないのは、単純に活動の為に必要なエネルギー源を与えてあげるだけで大丈夫。
そうするだけで、彼らは、私の為に動いてくれる小さな小さなお手伝いの妖精さんになる。
ま、妖精さんって言う割には可愛げもないし、デザインも小動物を真似て生み出したものだから使い魔と言う方がいいんだけど、兎も角、私の傍らに積もっていた簡易使い魔たちが目を覚まし、一目散にテントの外へ。
授業中以外のネギの監視は彼らのお仕事で、私の仕事はさっきまでの授業中のネギの様子の監視結果の報告書作成。
今時手書きで報告書纏める魔法使いって、実は結構珍しいのよね。
ちょっとは古くてもタイプライター、最新だったら"のーとぱそこん"とか言うので纏める人も多いらしいけどね。ま、デジタルよりアナログが魔法使いらしくていいと思うのよね。私的だけど。
同時進行だったからか、不思議と纏め作業は即興で終了してしまった。
終わったと同時に、ぼふっと背中から倒れこむ。丁度いいところに枕がわりになるものがあったもんだから、後頭部に当たる感触は固くなく、心地よい。
そのまま視線を傍らに移せば、暇暇ですっかりまあるくねっころがっていたレッケルの姿が目に入る。
白い小さな山は、小さく動悸を繰り返しながら、両の目を閉じ、夢見るように安らかに眠っていた。
こう言うと死んじゃったみたいに聞こえるけど、ちゃんと生きてますからね。
髪の毛は纏めていなかったから、ぶわっと広がってテントの端々まで行き届く。
最近はちょっと髪の毛が伸びて来たから切ろうとも思っているんだけれど、髪は女の切り札なのだ。
魔力通しも完璧なら、髪の毛は女の子の持ちうるものの中では、最高の武器にもなる。
最も私はそんな暴力的なことは仕出かさないし、するつもりだってない。兎も角、長く伸びた髪の毛に手を加える事は暫く無いでしょうって事。
さてと、ちょっと疲れた事ですし、ちょっとの間は体力の回復だ。
唯でさえ色んな事が多く起こっているんだもの、休めるときに休んでおくのが何より一番という訳でありまして、そのまま私も目を閉じていく。
次の報告、次の反応があるまでは暫しの間身体を休めるとしましょうか。

―――――

「ホラ、おきて、レッケル」
「みー...」

寝ぼけ眼のレッケルを何時ものように胸元へといざなって、いつもの外出モードとなりながら髪の毛をリボンで纏めていく。
ネギの居場所の把握は大丈夫だし。今日は今日とて本格的に晩御飯を作らなくっちゃいけないわけ。
昨日はなにやらごたごたしていて何も食べるような時間が無かったんだけれど、今日はそんな事も無いようにしなくっちゃいけません。
育ち盛りなんだもの、沢山食べなきゃ大きくはなれません。背とか、胸とか、胸とか。
今日の報告書作成も、何とかさっきの時間中に終了した。
予定通りに事が進むのは滅多には無いんだけれど、こう言うことも滅多に無いのでイーブンイーブン。
滅多にない事は滅多に無いからこそ滅多にないことであってって何を言っているのかしらね、わたしゃ。
ローブを羽織る。羽織って出歩くような季節じゃないのは重々承知なんだけれど、トレードマークと言いますか。魔法使いとして最低限の装備の一環ってところ。
魔道書持って外出するような魔法使いは、どこぞの森で隠居暮らしならぬ若気暮らしなんてものをしている人形遣いだけで十分よ。
そう言うわけで、私の装備はこの黒魔術師っぽいローブ一着のみ。いつだって、そうきてきたもの。
テントのジッパを大きく開いて、夕焼け間近の外を見やる。
長い間テントの中だったものだから、暮れなずんでいく夕日でも目には結構痛かった。
そんな外にベルト靴をしっかり履いて、いざ行かん。
二、三度背伸びをすると、背骨がボキボキって言った。
拙いわね、実は結構身体にガタが来ているのかも。まだ若いって言うのに、身体にガタが来ているなんて困ったものだ。
そんな身体に鞭打って、本日の買い物へ出発。
少しずつ開けていく視界の端に、子供たちが居た。
いやね、子供が居るのはいいんだけど、問題なのは、いや、これまた問題でもないんだけど、その子供たちが、例の黒ずんだ四角錘の周辺へと屯っていた。
これは結構珍しいかも。
いつもなら夜限定で出現、もしくは、人気の無いときに出現するアレが、こんな時間帯に出現しているって言うのは中々に珍しい。いや、私が知りうる範囲内でなんだけれどね。
子供たちは大して怯えた様子も無く、それにぺたぺた触ったりしている。
無邪気に、無頓着に、ある意味では、無知に。
でも、それもなんと無く解るような気がする。
不思議と今のあの四角錘からはあの独特の存在感みたいなのが感じられない。
公園とか、その辺りに放置されている名も知らない芸術家が残したオブジェクトとかと同じの、ただの岩石の塊へとなりかけている。そんな雰囲気しか発していない。
まっ、こんな日中からあんな圧倒差を見せられてしまっちゃったら、子供が寄り付くどころかちょっとした問題だ。日中ならコレぐらいが一番って思うわけよ。
何時までも構っているような時間もあるわけじゃない。何も影響はないと言うのなら、構っておく必要も無い。
アレに意思があるとか、そういった雰囲気は一ミリたりとも感じてはいないんだけれどきっと、アレもそう思っていると思う。
子供になんて気を割いている様な暇なんて無い。
そう、周辺の変化に対して、蚊ほども興味を払う必要なんて無い。
あれだけの存在感、圧倒差を見せ付けていた存在が、こんなにも穏やかになっているって言うのなら、それもありえる事なのかなとも思っている。

 

夕焼けの朱がもっとも輝く時間帯。綺麗な朱を全身に浴びて、誰かが見ればきっと柄にも無く紅くなったかのような顔立ちで小高い丘の上を歩いていっていた。
眼下に広がる俯瞰情景は朱に染まった大きな湖と、朱に染まるロンドンにも似た町並み。
聞こえてくる声気は和やかで、変化の無い幸せな日常の象徴だと思う。
変わらない事なんて、本当はどこにもない。生活に変化は無くても、風の流れや、夕日の輝き、星の動きを注目して生活していれば、刺激も何も必要ない。
だって、渦巻く変化はそんな刺激を求めるような感性では追いつけないほどに変化していっているのだから。
そんな事を考えて、思って、購入したいくつかの本日の夕餉の品々を片手にぶら下げた状況で、丘の上からその風景を見送っていた。
でも、いつまでもこの光景に見とれているわけにも行かない。
のんびりしている様な時間ではない事は、重々承知している。
ただの単なるお買い物なら此処で十分。後はいつも通りにテントへ戻って今日のお食事を頂くだけなんですけれど―――運がいいのか悪いのか、見るべきじゃない姿を見てしまった。
それは、あの漆黒の後ろ髪だった。
風に靡くロングヘアは、綺麗と言うか幽玄。美しいと言う表現よりは、表現しがたい際だたしさを以って風に靡く。
それに合わせる様に、彼女だけが履いていた、あのロングタイプの学園制服のスカートも風に揺れている。
両手は前に回されて鞄をきっと提げているんでしょう、後ろからでは、髪と長いスカートと、そしてどこか物寂しげな、でも、近づくには近づけない、あの雰囲気を漂わせ、やや右へ左へと揺れながら帰路、いや、きっとあれは、私と同じ場所へ向かっている足取りだと思う。彼女は今日も私のところへ来るつもりだったのかな。
兎も角、昨日とは違った経路で帰路らしきものについているのだから、きっと私のところへ来るんじゃないかな。
と、声をかけようとしてやや小走りになって追いかけていると、急に踵を返して、嶺峰さんの順路が変わる。
見られても問題ないって言うのに、何でか近場のゴミ箱の陰に隠れて、レッケルと二人係でそんな不思議な動きをしている嶺峰さんの目で追っていくと―――
学園を大きく見下ろす事の出来る小高い丘である此処より、ほんの少し小高く作られた場所にある、ロンドン似の建築物の多いこの学園内でも、際立ってその節が見える一軒の建物の中へと消えていった。
走り寄る。
嶺峰さんが入っていった建物には、純粋に興味があったもの。
自分のことに対しては無頓着かとも思っていたけれど、なんだ、自分のことで考えられることがあるんじゃないと思って、その建物に近づいていくにつれ、ソレは違うのだと感じ取り始めていた。
見上げるほど大きな建造物。
いや、それは単純に私がちっこいだけでありまして、実際の大きさは、あの中等部校舎や、私が根元に居座っている巨木なんかと比べれば全然小さい。
つまりは、これは人間としての心境だ。私の心境が、この嶺峰さんが入っていった建物を大きなものとして定めている。
その理由は容易い。神をかたどる場所であると言うのなら、神様とか言う正体不明の存在に対して敬意や畏怖や、ある意味では敵意を抱いている人間なら、おのずと大きなものとして扱ってしまうが故、この建物は大きかった。
そう、三角形の屋根の真中に立てられた十字架が今にも落ちてきそうに見えるほどに。
考えた事はいくつかあるけれど、まず私が始めに思った事は放棄した。
自分のことで何かを考えていることじゃない。嶺峰さんは相変わらず嶺峰さんのままでいるよう。
二つ目に考える事は、三つ目、四つ目と混ざり合って、何を考えていけばいいのかが解らなくなっていく。
一先ず纏めると言うのなら、嶺峰さんは自分のことではない何かの為にここへと消えていった。それだけが、今の私に理解できる事だった。
本当にそれ以外に理解できることはない。
彼女が何の目的で教会なんて場所に消えていったのか。
なまじ、一夜過ごすほどに嶺峰湖華さんと言う女(ひと)を知っていたから、ますます理解できなくなっているんだと思う。
彼女が神様とか、宗教とかにのめりこんでいるようには見えなかった。
そう見えなかっただけで、事実はどうなのかは知らずとも、少なくともそういうタイプの人とは思えなかった。
そして、彼女は自分の為に何かをやるような人ではないということをどこかで知っていたから、ますます戸惑っているんだ。
石造りの階段を数段上って、半開きになっていた重苦しくも、豪奢な直国の施された扉をゆっくり開く。
覗きこんだ教会の中に、人影はたった一人。それも、さっきまで見ていた彼女の沁み込むほどに黒い髪の後頭部だけ。
それ以外には音も声も何も聞こえはしない、静謐とした世界の中で、ステンドグラスの光を背後から浴びている嶺峰さんだけが、その世界の住人となっていた。

「どーしたの?教会に御用かなー?」

思わず、振り返り際に魔法をぶっ放しかける。
あんまりにも唐突に声をかけられたものだから、私の中の条件反射が勝手に発動してしまったんだ。
それをなんとか押さえつけて、まだどきどきしている胸元を押さえつつ、声をかけられた背後の方へと身体を捻る。
人のよさそうな笑顔が有無を言わさず渡される。
髪が短いからか、変に顔に影が差さず、教会内を反射するステンドグラスの僅かな明かりで文字通り明るく、嶺峰さんとは違う、まさしくにこっと微笑む、人の良さを見るだけで与えてくれるような、温かい笑顔が覗き込むようにして腰を曲げた状態から渡されている。
教会通いの女性特有の真っ黒い衣装とは裏腹に、手以外唯一覗く顔は明るく輝くように笑って、教会のシスターらしき人が、そこにいた。

「懺悔室だったら今は開いているけど、どうかな?」
「あ、いえ。そうじゃなくって、あのあそこに居る人の事で」

ちら、と教会の真中辺りに座したまま動かない嶺峰さんに対して視線を送る。
けれど、どうやらそれだけでシスターも理解は出来たらしく、私と同じように教会の中へ向けて視線を投げかけた。
どこか困ったかのような、困惑と言う言葉が似合うような表情のまま、シスターは相変わらず見る人を穏やかにしてくれるような横顔のままでそっちの方を眺め続けていた。
かく言う私も見つめたままで動かない。
昨日あれだけ一緒に居て、一夜を共に過ごしたりしていたっていうのに、いざこうして、再び理解不能な行動を取られると、正直どうしようもなくなっちゃうみたいね。
前にも言ったとおり、私は理解出来ない事象とかは好きじゃない。
理解できるような事象を意義付ければなんでもないんだけど、相手が同じ人間だって言うのなら話は別だ。
彼女は私たちと変わらない、けれど、どこか致命的に異なっている部位を持っている。
それでも、普通の人なんだもの。
だからこそ何も出来ない。
普通の人と同じように接しては、彼女を理解してあげる事なんて出来ない。
彼女に近づく為には、やっぱりより彼女を知るために彼女に近づかなくっちゃいけないんだけれど。
入り口辺りで二人ぼっち。教会の中は、既に自己認識領域になりかけている。
嶺峰湖華さんと言う女(ひと)が常に放つ不可思議な、理解出来ない気配感が教会の中に渦巻きかけている。
このままほおって置くと、この空間が歪んでしまいそうなのは相変わらず。嶺峰さんという女性の発する独特とも言える存在感が、周辺の存在感を極限まで薄められていっている。
兎も角、ほおっておくことが出来ないと言うのならなんとかするしかない。
少なからずで私が彼女と一緒に居る時間が長いんだもの。
いや、もっと長い人は居るかも、いや、居ないわね。彼女のあの存在感に順応できる人がこんな普通の普通生活を送っていくような学園の中で居る筈がないなんて、ずっと前から知っている。
居るならああはならなかった筈だもの。彼女がああして理解出来ないようなものになってしまったのは、ある意味で周辺の環境も関わっていると思う。
環境が人を変えていく。
変わっていく環境に応じてそこに生きていく生き物も変わっていくんだ。
なら、誰からも拒絶され続けてきたと言う環境で過ごしてきた彼女が、まともな、人間が理解できる思考を持つ事が出来るなんて事は無い筈。
そう言うことなら、私が何とかしなくっちゃいけないと思うわけ。
お節介かもしれないけれど、昨日の時点でほおってはおけないって決めちゃったんなら、最後の最後まで付き合ってあげるのが私の、マギステル・アーニャとしての役割だと決めた筈。
ちょっと大変になるのは丁度いいと思っているわけですし、いっちょ気合をいれましょうか。
こきこきっと首を回して前へ一歩進み出る。
その私の変化に気付いたのか、いや、中々に鋭い感性をお持ちのシスターの表情が一瞬疑問に変わり、それでも、お任せするわといった優しげな表情で一歩退いてくれた。
こうやって言葉でなくても感じ取ってくれるとは、中々に優秀なシスターらしい。
伊達に人の心の深いところに触れてきてないってところかしらね。兎も角、ここは任されるとしましょっか。
教会の壁よりになって歩いていく。
中央の通路を通って行けば早いんでしょうけど、それじゃあ気付かれちゃったりもする。なるべく気付かれないように彼女の隣に座るためには、多少面倒であっても壁側よりに歩いていって、彼女の真横に座んなくっちゃ意味がない。
真横も真横。通路を挟んで真横、じゃなくて、正真正銘、隣り合っての真横だ。通路ギリギリに座っている彼女の真横に座るには、壁側から入っていかなきゃダメなのだ。
ずりずりずりずりぎこちない動きでそこを目指す。
教会の中央、最奥に位置する教壇から数えれば、ちょうど6番目の右寄長椅子の通路側。
そこに座っている嶺峰さんの横目指して、教会の壁をずりずり移動中。
クリアストーリから優しい夕日が差す。
朝に見た、雲の切れ間から差し込む日光みたいだと思った。
雲を割いて、朝の象徴である日の光を一身に降らせる。それと似た光景が、私が進んでいく真横に広がっている。
左右から差し込む光は通路の真上に、加えて、ステンドグラスから差し込んでいた光が若干弱まる。そりゃそうよね、光が重なれば、その分その場の色は薄まっていくんだもの。
と、何とか壁から離れて、こそこそっと嶺峰さんの横目指してちょっと小走りになったりもする。
そうしてたどり着いた先。椅子に腰掛けていた嶺峰さんは、両の目を閉じて、両手は膝の上に置いたまま、ぴくりとも動いてはいなかった。
私がすすっと、髪の直ぐ前で二、三度手を上下させても、なんら反応なし。俗に言う、完全に眠ってしまっているって状況だと思うけど。
でも、不思議と動悸はないし、睡眠特有の定期的な呼吸音もしない。
ただ、時折小さく息を吐くように息を吸うように唇が開いていくだけ。
それ以外は、そうね、やや俯き加減なって、その漆黒の髪の毛で顔の大半が隠れてしまっているって言うのと、あと、ちょっと日の当たる割合が多すぎてあっついかなって思うぐらいかな。
振り返ってみると、あの優しげな表情のシスターが頭に冠していた黒布を脱ぎとって、その短髪をさらしている。
こうやって見てみると、ますます修道女って雰囲気の良く似合うと言いますか、でも、不思議と逆の活発で快活な雰囲気も見当たる。
でも、どっちにしても優しげな印象は変わらずに、赤毛のシスターは、にこやかに私を、いや、私たちを見守っていた。
シスターがあそこに居てくれる分には、この教会で邪魔される事はなんとかなさそうだ。
暫くゆっくり、彼女がどうしているのか、どうしたいのかを観察する事に、いやいや、観察って言ったら言い方が悪いわね。うん、ここは一つ、一緒に何をしているのか体感してみるとしましょっか。
両足を投げ出すように、彼女の横の椅子へと静かに腰を下ろした。
温かい夕日の光が気持ちいい。ステンドグラスと言う造形美を通して注ぎ込まれる光だからか、不思議と、誰かに抱かれているような、そんな不思議なぬくもりの中に居るような気分。
勿論そんな事は無いんだけれど、それでもやっぱり感じ取れてしまうって事は、うん、どうにも私って甘えん坊の節とかがあるみたい。
嶺峰さんに抱きしめられた時とか、柄にも無く泣いていたじゃないの。あれってどうしてだろうって、時間が許す限りの範囲内で考えていたんだけど、どうにも思い立つような事柄が無い。
でも、それは思い当たる事柄が無いんじゃなくて、そも、私はそれを体感して居なかったんじゃないかって思うわけよ。
あ、そっか。そんな事考えていたら、思い返すと私って甘えた事とか、甘えさせてもらった事とかって極端少ないんだ。
魔法使いに生まれたからそうなったのか、それとも魔法使いとして生きると誓ったときから、まだまだガキで、世界の広さも自覚していなかったのに、そんな事を誓いとしていたからかは解らない。
でも、私は誰にも甘える事はなく、甘えさせてもらう事もなくで、今日まで魔法使いやってきた。
つまりはそう言うことだ。
不意を突かれたと言いますか、隙を見出されてしまったと言いますか、ともあれ、私は慣れない事されてしまったものだから、吃驚してしまったんだと思う。
むしろ、そう思うようにしている。だって、そんな何でもない事で泣いてしまったなんて、恥ずかしいったらありゃしない。
でも、まぁ、まだ泣けるだけいいってものかもしれない。
本格的に魔法使いとなれば、私が泣く事なんかよりももっと嘆き悲しんでいる人達のところへ行かなくっちゃいけないんだもの。
そう言う人達、そんな現実の力ではどうしようもない自然の力に対向するために生み出されたのが魔法。
どうしようも出来ない事を、どうにかするための力。
私が自分で望んで、自分で選んだ道の先に用意されている力だ。
今はまだ未熟でどうしようもないけれど、いつかは、きっと多くのマギステルでも追いつけないぐらいの領域まではたどり着いてやろうって、きっとそう思い続けている。今も、こうしている時も、また。
今のうちに出来る事がある。今でしか出来ない事もある。
大きくなって、少しずつ大人になっていけば、ちょっとずつでも、その幼い頃を夢とか、幻想とか、小説とかに思い描いていたものも思えなくなるほどに擦り切れていくんだろうと、幼心であっても、既に確信に近い感情は持っている。
現実に磨り潰されていくだけの幻想。そんな幻想の力ではなく、格好たる現実の力として存在している魔法。それを講じて、自然に相対していく私たち、魔法使い。
仄かな、温かい光で満ち満ちていっている教会の最奥に座す教壇を遠い眼差しで眺めている。
淡く、消え入りそうな世界が目を細めただけで目前には容易く広がってしまう。
そうなんだ、でもね、どれだけそう願っても、考えていたとしても、きっと、それも、いつかは消えていくんだろうって思っている。
誰かが死んでも、その人が生きていた証さえ残っていれば、その人は、思っている人達の心の中で生き続けるんだと、師から何度か言われたこともある。
ソレを聴いて、少しだけ安心して、でも、続く言葉は戒めとして、いつまでもいつまでも心に焼きつき続けている。
そう、師は確かに続けてこういっていた。
でも、それも消えると。どれだけ輝かしかった思いでも、憎たらしいまでの感情も、蓋を閉ざし、二度と開けることの無い忌まわしい記憶、全部、全部、何時かの果てには消えていくのだと。
師は、繰り返し音楽を流し続けるオルゴールのような儚さで、そんな事を語っていたっけ。
それは怖いなと思っていた。
そりゃ怖いわよ。自分が居た証さえもいつかは消えて、自分がいなかった事にされるんだ。自分なんて、存在していなかった事にされるんだ。
そうやって考えると怖くなっていた。
いつか思った、死ぬよりも、死ぬとき何一つ考えられなくなる方が恐ろしいと感じたときと同じように、自分など、居ても居なくとも同じだと断言されるのが恐ろしかった。
でも、まぁ、所詮は俗物的な考え方だったかもしれないわよね。
今はこっち側にとって、居ても居なくてもいい存在になっている。
いや、ならなくっちゃいけない。そも、私が生きていく場所はこっち側には何一つとして残す事は出来ない道だもの。
横を向く。小さく動悸も繰り返さず、眠っているのか、覚醒しているのかも判断できない黒髪の女(ひと)の横顔。
私がここに来て出会った、不思議で、近づきにくくて、理解しづらくて、ほんっとにどうしようもない人だけど、いい人で、でも孤独で何も残せていなくて、こっち側で生きていっている人。
それは悲しいから、私は残す事ができないから、だからせめてと思ってここに居る。
ああ、そうよね。
一回ぐらいは誰かに、私、居るんだよって証明したいわよね。
だって人間だもん。俗っぽくて、多くの物語の悪役が絶滅を願ってやまないような、それだけ業の深い生き物なんだけど、でもちゃんと生きていってるし、無茶して頑張っているヤツとか、好きになれないけど精一杯やっているヤツとか、一杯いるし。
彼女も同じように、理解出来ない自分を理解しようと頑張ってたりもするわけだしさ。

「...起きてるー?」

初めて声をかける。小さく、響きもしないほど小さな、呟きとも捉えられかねない程小さな小さな一言だったんだけれど、十分に効果はあったみたい。
彼女の横顔。眠っていたかのように閉じられていた瞼がゆっくりと持ち上げられて、こっちを向く。
そのきょとんとした愛らしい顔立ちに、無理やりの笑顔で応じた。
今だけの笑顔。魔法使いになるまでの、アーニャ=トランシルヴァニアとして、小さく笑ったら、思ったとおりだった。
目覚めたばっかりも、何を今までやっていたかなんても関係ない。いつも通り、彼女どおり、私が気に入っちゃった、あの嶺峰湖華って女(ひと)が幸せそうに笑っていた。
ちょっとだけの間、自分に誓う。
この人の笑顔をもっと多くの人に、この人をもっと大勢の人に。
一人の幸せを願うのは魔法使いとして失敗作級かもしれないけれど、同じ生きている証を持っている者同士として、小さな誓いを立てる。
大丈夫、この人見た目よりも強いもん。
私が居た証になってくれるのなら、仮令、最後の最後、彼女が覚えてくれていなかったとしたって、後悔は無い。

さてと、今日も明日も明後日も。笑って一日すごして生きましょっか。

第十五話〜安眠〜 / 第十七話〜鶺鴒〜


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