十一の巻「小夜時雨」1



この巻の主な登場人物


本作品「小夜時雨」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。

by 戸田采女


 十一月に入った。
堀の水にも薄氷がはり、雪深い北国の冬がもうそこまでやってきていた。

 藩校『宗道館』の秋の授業は本日が最終日。来年三月の雪解けまで長い休みに入る。
今年最後の授業を終えた三郎は、乳兄弟の源蔵、友人の筧松之助、神原倫太郎とともに帰り仕度をしていた。

 涙ぐましい努力の末、秋の試験で倫太郎と源蔵は晴れて素読吟味に合格した。先月から二人も三郎、松之助とともに年長組の教室で受講している。守役の誠之進は城で所用があり今日は迎えに来られない。三郎たち四人は談笑しながら教室を出ていこうとした。

 「三郎ぎみ」
呼び止められ振り返れば、次席家老・内藤帯刀が嫡男・内藤弥一郎とその取り巻きが後ろに立っていた。
弥一郎は一礼すると、
「本日、これから何か御予定はござりますか?」
「いや…特にないが?」
「よろしければ、少し我が家へ立ち寄られませぬか?」
「……」
三郎は即答しかねた。

 内藤弥一郎はこれまで三郎に対して、特に敵対することもなく、また媚びもせず、適度な距離を置いて接してきた感がある。だが弥一郎の取り巻きは、陰で三郎のことを『旅籠の息子』などと呼んでいる連中だ。当然、源蔵たちは警戒心に満ち満ちた目で弥一郎らを見ていた。

 源蔵たちと弥一郎の取り巻きの間に、一種不穏な空気が流れた。

 状況を読んだ三郎は、
「では、少しお邪魔するとしよう。源蔵、城に戻って誠之進に伝えておいてくれ」
「さ、三郎ぎみ…」
源蔵は三郎に翻意させようと懸命に目で合図したが、三郎はあえて黙殺した。

 誰も三郎にはっきりとは語らぬが、守役の誠之進の溝口家と内藤家の確執は、三郎もそれなりに感じ取っていた。内藤家の嫡男で学業優秀な弥一郎の存在が気になりながら、三郎の方でも何となく避けてきた部分がある。

 親しくなれるかどうかはわからぬが、弥一郎と一度話をしてみたいと思った。
向こうから話し掛けてきたのだ。良い機会かもしれない。

 しかし、
「で、では私もお供させてくださりませ」
三郎ひとり行かせるのが不安な源蔵は、あきらめずに言い募った。

 「厚かましい奴め!おまえに出す茶や菓子はないぞ。そんなに供をしたくば馬小屋で待っておれ」
取り巻きの一人が源蔵の肩を小突いた。
思わず眦をつりあげて一歩前へ出ようとした倫太郎を、三郎が片手で制した。

 「奥野!おまえも下らぬことを申すでない。藩校内で身分の上下を云々する言動は好かぬ」
弥一郎にぴしゃりと言い放たれ、取り巻きは悔しげに口を噤んだ。
「…御無礼いたしました、三郎ぎみ。では参りましょうか?」
「ああ」
三郎はしっかりと頷くと、弥一郎と並んで教室を出ていった。




 定例の秋の試験で三郎は年長組の次席を取った。
松之助が風邪をこじらせて試験を受けなかったため、繰り上げの次席だと本人は謙遜しているが、十四歳という年齢を考えれば快挙である。今年の主席は二つ年上の内藤弥一郎、次席家老・内藤帯刀の嫡男だった。
 
 藩主・信輝公が江戸在府のため、『御進講』(成績優秀者が藩主の前で四書五経などを講じる)の栄誉は逃したものの、「これでまた内藤家の株があがったわ」と父・帯刀は御満悦であった。

 弥一郎は父・帯刀ほどアクの強い性格ではなく、武芸は嗜む程度、どちらかといえば物静かな学究肌だった。帯刀の息子なら、鼻持ちならない性格で肩で風を切って歩いているだろうと思いきや、意外に腰が低い。実物に会うと見事に期待を裏切られる。

 帯刀の弟、嶺次郎は昔から好色なろくでなしで、藩校でも成績は最下等の「遊惰」。素読吟味も合格していないという噂がある。文字どおり内藤家のお荷物といって差し支えない。

 しかしどういうわけか、帯刀は嶺次郎を冷遇するわけでもなく、部屋住みのまま寛大に遇している。無論、あのようにできが悪くては養子の声がかからないという事情もあるが、帯刀は嶺次郎を江戸に遊学させたり、「やはり御身内は可愛いのだろうか」と呆れられるほど弟に甘かった。




 八ッ半(午後三時)頃、城の東側で松之助、倫太郎らと別れ、弥一郎たちと三郎、源蔵は城の大手橋のあたりまで戻ってきた。源蔵は三郎の言い付けには逆らえず、誠之進に報告するべく渋々ひとり城へ戻っていった。

 大手橋を過ぎ、このまま掘割に沿ってまっすぐ西にいけば溝口家の屋敷がある。内藤家、小栗家の屋敷は大手橋を渡ってすぐのところにあった。屋敷の位置としてはこちらの方が格上なのだろう。昔日の内藤家、小栗家の権勢が偲ばれた。

 内藤邸は溝口邸と同じような白亜の壁に長屋門という、典型的家老屋敷の作りだった。ただ、庭園の趣きは随分と異なる。溝口家は四季の花や樹木が美しい、どちらかというと女性的な庭だったが、内藤家の庭は樹齢百年を越える立派な松の木や、築山、高価な錦鯉が泳ぐ池や小川など、花を愛でるというよりは、起伏に富んだ景観を楽しむ庭であった。

 出迎えた内藤家の用人は突然の若君の来訪に泡を食っていたが、早速、座敷に案内すると女中に命じて茶と菓子を運ばせた。当主・帯刀はまだ城中にあるらしい。使用人は多いものの屋敷の中はひっそりと静まり返っていた。

 上座に座して茶を喫しながら、三郎は素朴な疑問を口にした。
「弥一郎には兄弟はおらぬのか?」
弥一郎は長兄のはず。屋敷の中に子供の声がしないので、独り子なのかと思ったのだ。

 向かいに座った弥一郎は、口元に寂しげな微笑を浮かべた。
「…一応おりまするが、この屋敷では暮らしておりませぬ」
三郎の黒目がちの瞳が何故と問うた。
「皆、異腹でござります。父には外に何人か妾がおりますので」
「あ…」
まずい話題を持ち出したかと戸惑いを見せる三郎に、弥一郎は小さく首を振って否定した。
「お気にされるような事ではござりませぬ。家中のものは皆存じております。母も数年前にみまかりましたので、屋敷には父、叔父、私と、男ばかり三人が暮らしております」
「…すまぬ。余計なことを申した」

 三郎は頬を赤らめて俯いた。
考えて見れば自分も側室の子なのだ。
 藩主が側室を持つのは大名家ではあたりまえ。三郎の母、おひろが商家の出ということで多少の陰口は出ているが、庶子といっても藩公の三男。別段肩身の狭い思いをする必要はないのだが…。
 
 何となく居心地悪そうに俯いている三郎の気持を察したように、弥一郎が話題を変えてきた。
「三郎ぎみ、この阿蘭陀菓子はいかがです。お口にあいますでしょうか?」

 三郎は勧められるまま、焼き菓子を楊子にさして口へ運んだ。卵と砂糖の優しい味が口いっぱいにひろがった。
「うん、旨い!」
思わず叫んだ三郎に、弥一郎がつられて破顔した。
「お城ではこういう菓子はあまり召し上がらぬので?」
「…いや、阿蘭陀菓子などはじめてじゃ。屋敷では茶の湯の干菓子か、お福のぼた餅か団子だな」
「左様でござりますか…」
「お福のぼた餅は絶品じゃ。今度少し届けさせよう」
「ありがたき幸せにござります」

 弥一郎は何事にも素直な反応を返す三郎を、微笑ましそうに見つめていた。
三郎は視線に気付くと、
「…そなたもやはり、私を妙な奴だと思っているのか」
「何を仰せになられます…?」
弥一郎は小首をかしげた。
「…ある人物に言われたのだ。武士は…容易に感情を表に出すものではない、と。小兵太、あ、師範代にも言われた。私は…泣いたり笑ったり、怒ったり…垂れ流しだそうだ」
『垂れ流し』と聞いて、さすがに弥一郎も吹き出しかけたが、真顔に戻って続けた。
「恐れながら…、たしかに表情豊かなお方とは存じますが、私は悪いことだとは思いませぬ」
「…まことにそう思うのか?」
三郎は疑わしそうに呟いた。
「…人間とは本来そのようなものではござりませぬか?」
「…うむ」
「武士は何処か歪んでおるのです。面子、家格の上下、権勢欲……みなくだらぬことです」
「弥一郎…」

 三郎は不思議な思いで目の前の少年を見つめていた。
弥一郎がその場限りの嘘を言っているとは思えなかった。あの野心家の父親にして、この内省的な息子とは、にわかに信じられない気もしたが、
『武士は歪んでおるのです…』
胸の奥から吐き出した言葉は、弥一郎の本音のような気がした。

 「さて、と」
沈みかけた雰囲気を明るくしようと思ったのか、弥一郎は弾んだ声で膝を叩いた。
「三郎ぎみ、今日我が家にお招きしたのは、蔵書をお見せしようと思いまして…」
「なに、そうであったのか? ぜひ拝見しよう」
三郎は興味をひかれて頷いた。

 無論、西の丸の屋敷にも、誠之進が三郎のために持ち込んだ書はいくらでもあったが、本好きの三郎には、他人の蔵書を見せてもらうのも楽しみだった。

 二人は書庫へ向かうべく座敷を後にした。




 弥一郎が前もって命じたらしく、書庫には火鉢が運びこまれており、室内の空気は程よく暖まっていた。
古紙の懐かしい匂いが漂う室内には、内藤家歴代の当主が収集した書が所狭しと並んでいる。下手をすると本丸の書庫よりも多いのではないかと、三郎は感嘆の声を洩らした。

 弥一郎は手燭を片手に目指す棚に向かうと、三郎を呼び寄せた。
「三郎ぎみ、こちらへ」
埃をたてぬよう、三郎は静かに歩みよった。
「曾祖父の代まで我が家は篤学の士が多く、すすんで内外の書物を集めてきました」
弥一郎は明かりをかかげると、目の前の棚を照らした。
「こちらの列は、古今の和歌を集めたもの。この上は漢籍、こちらの壁際には儒学や歴史の書物…、奥の棚には蘭書もござります」
「何、蘭書もあるのか?!」
「はい。誓って切支丹本はござりませぬが」
弥一郎はわずかに口の端を吊り上げて笑った。

 「弥一郎、そなた、蘭書も読めるのか?」
尊敬の眼差しで見上げる三郎に、弥一郎は照れくさそうに答えた。
「とんでもござりませぬ。…その、一度は字引き片手に読んでみようと思うたのですが、とても手に負える代物では…。やはりきちんと師につかねば、独学では学べませぬ。高山では無理でござりましょう…」
「ふむ…蘭学など考えてもみなんだが…」
三郎は思案顔で顎に手をあてると、
「よし、今度父上が戻られたら話してみよう!」
「さ、三郎ぎみ、私は左様なつもりで申したのでは…」
慌てる弥一郎に三郎がにっこりと微笑み返した。
「心配するな。茶飲み話のついでにちらりと蘭学の話題を出して、父上のお考えを問うだけじゃ。そなたの名前なぞ出さぬ」
弥一郎は恐縮して頭を下げた。

 確かに蘭学の話題は微妙だ。
あまり熱心に語ると、切支丹ではないのかと痛くもない腹をさぐられたり、反動的だとレッテルを貼られる恐れもある。弥一郎がここだけの話にしたがっているのは、三郎にも十分理解できた。

 しばらく三郎は自由にあちこちの書物を手に取って眺めた。
深とした書庫の中、時折炭のはぜる音だけが聞こえる。
弥一郎は書庫の片隅にひっそりと佇んでいた。
三郎の気のすむまで、放っておいてくれるつもりらしい。
父・帯刀とは似てもにつかない、細面の白い頬に優しげな微笑を浮かべていた。

 やがて、
「三郎ぎみ、よろしければ、この詩集をお持ち帰りになりませぬか?」
弥一郎が遠慮がちに申し出た。
「これは…貴重なものではないのか?」
「差し上げるとは申しておりませぬ」
黒目がちの瞳が、しまった、といいかけたところ、
「しばらくお貸しいたします…」
弥一郎は是非にと、書を三郎の手に握らせた。

 三郎は小首をかしげながらも勧められた書を受け取った。

 弥一郎がほっとしたように微笑んだときだった。

 書庫の戸が開く音がした。
振り返れば、戸口に誰かが立っている。

 「叔父上?!」

 「弥一郎、三郎ぎみがお見えだそうだな。一人占めするとは、ちとつれないのではないか?」

 三郎が問うような眼差しを向けると、弥一郎はいかにも間の悪そうな顔で答えた。
「叔父の…嶺次郎にござります」

 嶺次郎は書庫内に入り三郎の前に歩み寄ると、跪いて礼をした。

 「三郎ぎみ、お初にお目にかかります。内藤帯刀が弟、嶺次郎にござります」

 三郎は軽くうなずいて礼を返した。見上げる嶺次郎と目があった。

 喉元に向けられた舐めるような視線に、三郎は微かに悪寒を覚えた。


つづく


壁紙は『kigen』さんからお借りしています。

 
「秋冷」3 | 「小夜時雨」2

下弦の月 目次



Copyright © 2003 戸田采女
All rights reserved.