十七の巻「磯貝」4
(右近視点)



by 戸田采女


 昂った神経を鎮めようと軽く寝酒を飲んだが、眠りはいっこうに訪れなかった。

 左の布団には真之介、右には誠之進が安らかな寝息をたてて眠っている。右近は首をわずかに誠之進のほうへ傾けて、寝顔を飽くことなく見つめた。

 誠之進と布団を並べて寝るなど二年ぶりだが、今宵は真之介も一緒だ。いずれにせよ、商人たちとの面談で右近は心身ともに疲れていた。

 触れたいという欲望は不思議と湧いてこなかった。

 蚊帳の中、隣の布団に横たわり、夜風にすだく虫の音を聞きながら、誠之進の眠る気配を追う…。

 暖かで幸福な気持ちが右近の胸に広がった。

 こんな機会さえ今では滅多に得れらないこと。

 誠之進と過ごした少年の日々に思いを馳せながら、右近は長い夜を過ごした。




 眠りと覚醒の合間を漂いながら、やがて白々と夜が明けはじめたのを瞼で感じた。ゆっくりと目をあける。明け方の澄んだ空気に、右近の記憶が呼びさまされた。小さな企みが右近の胸に浮かんだ。右近は夜具の上に半身を起こすと、誠之進のほうへ屈みこみ、肩に手をかけてそっと揺り起こした。

 眠そうな瞼が開く。
「いかがした…?」
鳶色の眸がまだ覚めきらぬ様子で右近を見上げた。
右近は唇の端に薄い笑みを浮かべた。

「浜に朝日を見にいかぬか?」




 思い出深い場所だった。

 打ち上げられた海藻を避けながら、波打ち際をそぞろ歩く。早朝の空気に潮の香が高く息づいていた。

 黒々とした水平線の彼方を見やれば、猩紅とよぶにふさわしい朝焼けが広がっていた。

 燃えるような空には見覚えがあった。あの朝、廃屋の中で誠之進に背中から柔らかく抱きしめられた。寒さから身を寄せてきただけとは知りながら、右近の胸は甘く疼き、心の臓が痛いほどに鳴っていた。だが振り返ったら最後、夢がさめてしまうような気がして…右近は誠之進の腕の中で身じろぎひとつできなかった。

 誠之進が好きだった。ふたりでいられることが無上の喜びだった。なれど、十六歳の自分はそれが友情なのか恋なのかわからず…。

 ふたりで過去に戻ることができるなら、今度こそ勇気を出して振り返ってみせるものを。正面から心を隠さず鳶色の眸を見つめれば、きっと今度こそ…。

「あの朝も…こんな朝だったな…」
はからずも誠之進のほうから洩れたつぶやきだった。
ふたりの歩みが止まった。

(誠之進、やはり忘れてはいなかったのか…)

 あれ以来、どちらもが一度も口にしたことのない話題だった。

 右近の薄い皮膚の下、身体中の血管が静かに音をたてて脈打ちはじめた。

「ひとり浜で野宿するなど、皆を心配させおって…」

 忘れもしない。十年前の夏。誠之進とふたり、この浜の網小屋で夜明かしした。(番外「初恋」 参照)

 前の晩、吉田小兵太、佐久間彦四郎らと四人で遊郭『桔梗屋』へ揚がるはずだった。女人について多少の興味はなくもなかったが、暖簾をくぐり脂粉の匂いを嗅いだ途端、吐き気が込み上げてきた。どうしても売り物の女人に触れる気にはなれなかった。右近は結局『桔梗屋』へはあがらず、ひとりで野宿すると言って誠之進たちとわかれたのだった。

 夜半、浜でたき火をしていたところへ、誠之進が右近を探して戻ってきてくれた。あの時の喜びは今でも忘れられない。

 あの時点で誠之進に対し、はっきり欲望を感じていたわけではなかった。若侍に言い寄られることに辟易していた右近は、そういうものを一切含まない誠之進との友誼に夢中になっていた。性愛一般について疎かった自分は、成人して妻を迎えるまで汚れを知らぬままなのでは…とすら思っていた。

 前をいく誠之進が波打ち際から二間ほど離れたあたりに腰を降ろした。右近もすぐ後に続く。身体が触れない微妙な距離をとって、右近は誠之進の隣に座った。

 誠之進が傍らの小石を拾い、海に向かってほうりなげた。しばらく押し寄せる波を見つめていた誠之進が、ぽつりと呟いた。
「右近…」
「ん?」
「貴公、やはり内藤の件…目付にまかせたほうがよい」
「何故だ?」
誠之進は右近のほうへ身体を向けると、
「すまぬ…父上の命ゆえ、今までも無理を重ねてきたのであろう?」
愛してやまない鳶色の眸が、案ずるように右近の目の中を覗き込んでいた。
「何のことだ…」
かすれた声で返答しながらも右近の胸は痛いほどに高鳴り、誠之進への慕わしさが身体の底からつきあげてくる。

 そのまま抱きすがってしまいたかった。

 突如、波音とともに大波が押し寄せた。水飛沫が飛び、二人の足下近くまで海水が押し寄せた。草履を濡らす寸前で、潮はふたたびあっけなく引いていった。

 こみ上げてくるものが大きいほど、淡々とした台詞が右近の口をついてでる。
「私にはこの仕事…荷が重いとでも言うのか?」
寒々しい声音は燃えさかる自分の胸のうちから出たものとは思えない。
「そうではない!」
「ならば放っておいてくれ」
「右近、よく考えてみろ。勘定吟味役だけでも重責なのだ。そのうえ、抜け荷や田村の殺しの探索まで任されていては、おまえが参ってしまう…」

 『おまえ』などと呼ばれるのは何年ぶりだろう。藩校時代以来だ。右近はそれだけのことに声を詰まらせた。
「誠之進…」
「藩金流用の疑惑が固まった段階で、目付に報告するのが筋ではないか? 吟味役の仕事はそこまでのはずだ。何故、父上もおまえも自分達だけで片づけようとするのだ?」
「それは…」




 理由は多々あった。

 誠之進の父、上席家老の溝口主膳は、口に出しては言わぬものの、内藤帯刀が謹慎を申し付けられる程度では不満なのだ。政敵として二度と息子、誠之進の前に立てぬよう、完膚なきまでに叩きのめしたい。

 そのためには、自分が上席家老の地位にある間に、帯刀の藩金流用だけでなく抜け荷の動かぬ証拠を押さえ、藩主・信輝公が慈悲をかける余地がないところまで追いつめたい。

 主膳は帯刀と島崎屋の抜け荷の探索のため、ひそかに忍びを組織して大坂にまで送り込んでいる。今、目付や湊奉行に任せてしまっては、今町にある島崎屋の蔵を調べ、奉行所に呼び出して尋問するのが関の山だろう。結局、全容をつかめぬまま終わるかもしれない。主膳としてはこのまま目付には報告せず、諜報活動を続けたいのだった。

 そして、右近の極めて個人的な理由としては…。

 内藤を叩くより先に、三郎の件にけりをつけたい。何としてでも三郎を他藩へ養子に出してしまいたいのだ。そのためには今しばらく内藤の存在が必要だ。三郎を疎んじる江戸の正室・お牧の方と癒着する内藤のことだ。必ずや、三郎の分家には反対してくるだろう。

 内藤を利用するのは両刃の剣だったが、次席家老の発言力は侮れない。

 誠之進は三郎の分家を実現すべく、懸命に中老の山崎や堀に働きかけているが、家老三家がそろって養子を勧めれば、信輝公とてそう簡単に分家を許すわけにもいかないだろう。

 右近はそこに賭けるしかなかった。

 幼い時から育てた三郎の幸せを願う…。誠之進の守役としての気持ちはわかる。だが、三郎の存在は近い将来必ずや誠之進の足をひっぱる。分家が実現しなかったとき、誠之進の落胆は大きいだろうが、長い目でみればそれでよかったと思う日がくるのではないか…。私は貴公のためを思って…。




「右近、人が尋ねておるのに答えぬのか?」
わずかに苛立ちを滲ませた誠之進の声音に、右近は我にかえった。

「あ、ああ、済まぬ。今頃になって眠気が…」
我ながら苦しい言い訳だとは思ったが。右近はわざとらしく目をこすると、小さな欠伸をもらした。
「何だ、夕べ眠れなかったのか?」
「ああ。島崎屋にまんまと出し抜かれたのが口惜しゅうてな」
つい愚痴が出てしまった。誠之進が目で先を促す。
「中村屋も角屋も、せっかく人が永代渡海免許をやるというておるのに。命が惜しいなどと抜かしおって…。これだから町人は…」
一度口を開くと、繰り言はいくらでも出てきそうだった。誠之進は喉の奥で笑うと、
「やっと本音が出たな」
誠之進は右近の眸をじっと見つめた後、嬉しそうに破顔した。
「貴公は…、何でも己の内に閉じ込めすぎるのだ」
「…。武士は己の感情を表に出さぬものじゃ。そういう風に生まれついている。貴公とて…」
「そのように、肩肘張って生きずともよいのではないか?」
「誠之進…」
「せめて、私や小兵太の前では力を抜け…。いつもいつも張り詰めていたのでは身がもたぬぞ」
「…ふむ。偉そうなことを言うな」
右近は拗ねたようにつぶやいたが、鳶色の瞳は相変わらず優しげな光をたてていた。




 ふたりの間に藩校時代の懐かしい空気が戻っていた。忘れがたい思い出の数々が、右近の脳裏に鮮やかに蘇ってくる。

 誠之進と初めて立ち合った日。小兵太がおずおずと『どじょう獲り」に誘ってきた日。菜の花咲き乱れる土手で、捨て犬だった『しろ』を見つけた日…。

 そして十五歳の夏の日の夕。武術棟の控え室へひとりで忘れ物を取りに帰ったとき、待ち伏せしていた内藤嶺次郎たちに襲われた。今度こそもう駄目かと思ったとき、息を切らして戻ってきた誠之進に寸でのところで救われた。

 夕闇迫る控え室の中、生涯友でいようと約束したあの日…。




 目頭が熱くなり、もはや顔を上げていることができなくなった。

「誠之進…何やら真剣に眠うなってきた。少しだけ、肩を貸してくれ…」
涙を見られるのを恥じた右近は苦し紛れにそういった。
「ああ、好きなだけ使え」
誠之進は暖かい声音で言うと、やや乱暴に片手で右近の肩を引き寄せた。右近は黙って頬を誠之進の肩にもたせかけ、目を閉じてそっと体の重みを預けた。

 誠之進の掌を肩に感じた。押し当てた頬からは誠之進の肩のぬくもりが伝わってくる。

 ああ、自分の欲しかったのはこれなのだ…。
自分を案じてくれる穏やかな鳶色の瞳。
心が寒さに震えているとき、そっと無言で寄り添ってくれる…。
身体のぬくもりも心地よいものだが、ふっと魂が寄り添うような瞬間…。

 右近は胸の奥から深い吐息をついた。鼻の奥がつんと熱くなる。

『武士は己の感情を表に出さぬもの』

 偉そうなことをいいながら自分の正体はどうだ。思い出の欠片にしがみつき、情けなくも瞳を潤ませている。なんと女々しい、なんと笑止な一。

 強がっていても、いつも窮地に陥れば誠之進に救われてきた。

 藩校時代、江戸詰めの頃、そして夕べの寄り合いでも…。

 もはや多くは望まぬ。こうして常に誠之進の傍らにあることができれば…。まもなく主膳の跡を継ぎ藩の執政となる誠之進のために、己の人生があるのだった。この場所さえ守りきることができれば、それ以上は望まない。契ることなど生涯叶わなくとも一。

 つかの間、波の音を聞きながら、右近は薔薇色の浮遊感に包まれていた。

 誠之進は右近に肩を貸したまま、じっと海原を見つめているようだった。波涛のむこうにいったい何を見ているのだろう。蝦夷や薩摩にいきたいというのは、あながち冗談ではないのかもしれぬ。

 ひとたび主膳の跡を継ぎ家老の地位につけば、身軽には動けなくなるだろう。それまでにもう一度、ふたりで国許を離れ、諸国を見て回るのはどうだ。そうだ、中村屋や角屋に行けという前に、われら自身で津軽海峡を渡ってやろうではないか。この目で蝦夷を見てみたい。


 おまえがいくなら私も一緒に船に乗ってもいい。蝦夷や九州だけではないぞ。オロシアでも唐でも、何処へなりともついていく。

 誠之進、早く自由の身になってくれ…。

 三郎の元服まで守役を勤めるなどと言わず、一日も早う…。

 もうこれ以上は待てぬ…。後生だ、誠之進!



 押し寄せては砕ける波のごとく。右近は祈りにも似た叫びを胸の内で繰り返した。



磯貝 了



「磯貝」3 | 「乱蝶」1

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