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十八の巻「乱蝶」1
この巻の主な登場人物
本作品「乱蝶」から当サイトに初めてお越しの方は、シリーズ全体の背景がわかる 時代設定・登場人物を合わせてお読みいただければと思います。 |
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処暑を過ぎると、北国の短い夏は早くも終わりを告げる。武家屋敷の庭に植わった栗の木に、はやくも青々としたイガがたわわに育っていた。初夏、白い花穂から独特な香りを漂わせていたのが、あっという間に立派なイガに姿を変えていた。
春先の少雨、空梅雨に続き本格化した日照りは、数日前にやってきた台風でようやく一息ついたかに見えた。しかし、この時期までに枯れてしまった稲が元通りになるわけもなく、作柄は例年の二割という極めて悲観的な予測が出ている。せめてあと一月早く雨が降ってくれたらと、百姓たちは嘆いた。今年も実りの秋は期待できそうにない。
幸い、凶作を見越して島崎屋が手配した米のおかげで、飢饉は免れることができそうだ。噂によれば、二百十日を過ぎたころ、米を満載した島崎屋の持ち舟が大坂を出るらしい。藩の金をくすねて次席家老・内藤帯刀が造らせた、くだんの千石船がいよいよお国入りを果たすのか…? 帯刀との政争もあらたな局面に入った。上席家老・溝口主膳、誠之進、右近は各々の思いを抱えながら、息をつめて帯刀の出方をうかがっていた。
***
次席家老・内藤帯刀の屋敷は大手橋のすぐ南に位置している。結城家が播州から高山へ国替えになった三代前、筆頭家老をつとめていたのは内藤家。帯刀の嫡男・弥一郎の曾祖父・内藤兵部である。兵部の嫡男・内藤弥兵衛は温和な性格ではあったが政治家としての器量に乏しく、跡継ぎとして内藤兵部の眼鏡にかなわなかった。兵部はなかなか家督を弥兵衛に譲らず、齢六十ちかくなっても家老の席に座り続けた。当時の次席家老、溝口家の嫡男・溝口主膳はまだ二十歳を過ぎたばかりの若者だったが、十代の頃から俊才の誉れ高く藩主の覚えもめでたかった。
若い頃は能吏として辣腕を振るった内藤兵部も、五十の坂をこえたころから思考が硬直し、独善的な振る舞いが目立つようになった。重臣たちも兵部を持て余しはじめた。ついに兵部が還暦を迎えたとき、藩主自ら引退を促したのである。後任には二十四歳の溝口主膳が抜擢された。
皮肉なことに、兵部が息子を軽んじ、自らが連綿と地位にしがみついたため、内藤家は筆頭家老の座から滑り落ちたのである。
政治という視座から見れば、内藤弥兵衛は取り立てて才のない凡夫だったが、家庭人としては現当主・内藤帯刀などより余程立派な人物であった。妻とふたりの娘を愛する良き父親だった。
しかし、弥兵衛には男子がいなかった。長女るいに分家筋から婿をとることが決まる。親族会議でるいのいとこにあたる五郎太(帯刀)に白羽の矢がたった。年齢的にもるいと釣り合い、武芸をよくし、秀才と言う柄ではないが頭のよい帯刀は、婿として申し分なかった。当時の習いとして、娘るいも親の決めた縁談に逆らうなど夢にも思わなかった。
るい十八歳、帯刀二十一歳のとき、ふたりは祝言をあげた。数年後、生まれた嫡男が、現在三郎と藩校で机を並べている内藤弥一郎である。
***
広大な敷地を誇る内藤邸の一角、庭付き書院の縁側で、当主・帯刀は自慢の相州刀の手入れをしていた。南北朝時代、相州伝上期の刀工・貞宗(正宗の養子)の作という触込みだ。貞宗の作は無銘のものがほとんどで真偽のほどは定かでないが、帯刀はこの刀の美しさ自体に惚れ込んでいた。稲妻、金筋等働き豊富で地鉄の見事さは師・正宗をしのぐとも言われる。
磨きあげた刀身を眺め悦にいっているのかと思えば、帯刀は何かに注意深く耳を傾け、時折かるくうなずいている。庭先の灌木の茂みあたりに何者かが潜んでいるようだ。
「…して、水車小屋近くの釣り場をはなれ、おふたりはさらに上流へ向かわれました。あらたに場所を定めて釣り糸を垂れたかと思えば…」
低くくぐもった男の声が好色な笑いを帯びた。
「何じゃ、続けてみよ」
帯刀は蒼く光る刀身を鞘におさめ、軽く鍔を打ち鳴らした。
「釣りは早々に切り上げて、守役殿が三郎ぎみを木立の中へお連れになりました」
「ふむ…」
肉厚の唇の端をゆがめて、帯刀は軽く鼻をならした。
「で…何ぞ面白いものでも見られたか?」
「…渓流の対岸に潜んでおりましたので、あまりよう見えませなんだが…」
帯刀が無言で先を促した。
「木立の中から、三郎ぎみのそれはそれは切なげなお声が…」
影は含み笑いとともに、いったん言葉を切った。
閑寂な庭内に、獅子脅しの乾いた音が鳴り響いた。
ふたりの逢瀬を想像し、帯刀の頬がみだらに弛んだ。
「…ふっふっ…面白みのない青二才かと思うていたが、誠之進も存外やるではないか」
「仮にもお仕えする若君をあのようなお声で鳴かせるとは…、いやはや、とんだ守役もあったものにござりますな…」
「瓢箪から駒とはこのことじゃ。まさかとは思うたが、まことに恋仲になっているとは…。こちらが話をでっち上げる手間が省けたというものじゃ」
満足げにうなずく帯刀に、影はさらに続けた。
「おふたりは先月から、たびたび荒井宿の先、明神池のあたりまで遠乗りに出かけておいでです。その際はいつも。池の近くの花心亭で『休息』を…」
「ほう、『休息』とな」
帯刀はあごをさすりながら、唇の端で笑った。
「花心亭もあのまま使われぬのももったいない話しだが…、誠之進も藩公の別邸を無断で使うとは、けしからぬ奴じゃ」
「御意…」
「なかなか面白い展開になってきたな。玄海、しっかりふたりを見張れ。出歯亀ばかりではあてられて困るやもしれぬが」
「何事もご家老のお心のままに…」
玄海と呼ばれた影は、灌木の身を潜めながら低く頭を垂れた。
廊下のむこうから微かな足音が聞こえてきた。帯刀は頬を引き締めると小声で鋭く命じた。
「…ゆけ。火急のことがなければ、次の報告は来月末でよい」
「御意」
玄海は言葉少なに答えると、見事に気配を殺して庭の奥へと消えていった。
*
廊下を渡ってきたのは、内藤家用人・朝倉助次郎だった。内藤帯刀は鞘に納めた相州刀を持って書院の中へ戻った。
「ご家老、ただいま戻りました」
朝倉は障子戸の向うに座り、一礼すると室内に入った。床の間を背に、立ったまま帯刀が問いかける。
「首尾はいかがであったか?」
「生憎、櫻田殿ご本人は所用でお出かけとの由、お目にかかることはできませなんだが、櫻田家の用人にご家老の書状を預けて参りました」
「あの孫作とかいう爺さんか…」
「左様で」
「息災であったか?」
朝倉は苦笑すると、
「もうかなりのお年とお見受けしましたが、相変わらず矍鑠(かくしゃく)としたご様子で…」
「…あの者には昔、嶺次郎が世話になってのう…」
帯刀は逞しい半身をゆすって笑った。十数年前、弟・嶺次郎が右近の屋敷に夜這いをかけたことを思いだしたのだ。好色なくせに惰弱な弟は、孫作に木刀でめった打ちにされて帰ってきた。帯刀は夜這いをかけたことを咎めるより、せっかく屋敷に忍び込みながら、思いも遂げずに老僕に叩きのめされて帰ってきた弟が、情けないやら哀れやら…。
帯刀は当時を思い出して苦笑した。
「ともあれ、ご苦労であった。下がってよい」
「はっ」
朝倉は一礼して立ち上がった。そのまま書院を出ていこうとしたが、
「朝倉、弥一郎はいかがしておる?」
帯刀がふと思い付いたように尋ねた。
「若様は…おそらく書庫においでなのではありませぬか?」
「ふん…またか」
「……」
「昼間から書ばかり読んでおるとは…、いったい誰に似たものか」
帯刀は小声で吐き捨てるように言うと、
「朝倉、弓の稽古をいたす。庭に的を用意せい」
「心得ましてござります」
首を垂れる朝倉の脇をすり抜け、帯刀は足を踏みならして廊下を去っていった。
*
「白菊丸様、一大事にござりまする!」
知人の葬いに顔を出していた右近は、帰宅早々、疲れているところを孫作につかまった。
「何じゃ、孫作…」
夏羽織を肩から落としながら、右近が不機嫌そうに答えた。
いつものことだが葬式は気が滅入る。ましてや今日のは嫁入り前の若い娘の弔いだった。勘定方の役人の娘である。はかなくなるのは浮き世のならいとはいえ、年はまだ十七だったという。はてさて気の毒なことだ。
右近は上座に座ると重いため息をついた。
孫作は羽織を拾い、きちんと衣桁にかけると、あらためて主の前に座って顔をこわばらせた。
「実は…内藤邸から用人の朝倉殿が参られました」
「内藤家の用人だと…?」
「左様にござりまする」
まったく予期しなかった訪問である。この時期、あちらから仕掛けてくるなど考えてもみなかった。
「いったい何用で?」
「帯刀様からの書状を白菊丸様にお渡しするようにと」
孫作は懐から書状を取り出すと、押し頂くようにして右近の眼前に差し出した。
右近は書状を受け取り、すんなりとした指先で包みを開いた。
手紙の中身は用件だけの簡略なものだった。
藩財政の今後につき、一度。勘定吟味役である貴殿の考えをじっくりききたい。『玉木屋』で一席設けるゆえ、御用繁多のところ恐縮だが足労ねがいたい…、というような内容であった。玉木屋とは城下の高級茶屋だ。右近は書状を孫作に渡すと沈思におちた。
日時は八月十五日、月見の夜を指定してきていた。
「知らぬ顔はできまいな」
右近はひとりごちた。
手紙を読み終えた孫作が顔を上げていった。
「なれど、白菊丸様、おひとりで行かれるのは危のうございます。内藤家のものは信用なりませぬぞ! この爺もお供を…」
はや臨戦体勢にはいった老僕を、右近は優しげな瞳でなだめた。
「気持ちはありがたいが、孫作、茶屋までは一緒にきても構わぬが、座敷には揚がれぬぞ」
「それは…!」
「仮にも次席家老直々のご招待だ。用人のそなたを同席させるわけにはいかぬ」
「お、仰せの通りにござりますが…」
孫作は唇をかみしめてうなだれた。
どこまでも忠義な老僕に、右近は感謝の気持ちで胸が熱くなった。
「孫作…」
「はい…」
「そなたには幼い頃より世話になりっぱなしだな」
「何を申されます、若様のお世話は私の生き甲斐にござります!」
孫作はしわだらけの顔に満面の笑みを浮かべた。
「本来ならとっくに隠居させてやる年なのに…。いつまでも頼り切りですまぬ」
「何を仰せかと思えば、某が元気でおられるのは、こうしてご奉公させていただいているからにござります」
「世間では花や野菜を作ったり、のんびりと好きなことをしている年であろう…」
ちいさく首を左右にふる右近に、孫作はいささかむきになって言いつのった。
「某は野菜も作れば、好きな碁も打っておりまする! 毎日楽しゅう暮らしておりますれば…!」
「そういう意味ではのうて…」
「白菊丸様、いかがなされました? 今日はおかしいですぞ?」
孫作は小首をかしげると、腰を浮かせて右近のそばににじり寄った。
「御免」
と、額に手をあてる。
右近は苦笑しながら孫作の好きにさせていた。
「たわけ、熱などないわ…案ずるな」
「…のようでござりますな」
孫作は納得して微笑むと、
「今宵は早うお休みくださりませ。すぐに湯殿の仕度をさせますゆえ…」
「ありがとう、孫作」
*
右近は軽く夕餉をすませると、早々に床についた。孫作に言われるまでもなく、深い疲労を感じていたからだ。葬儀の気疲れもあったが、それだけではない。身体が鉛のように重い。この慢性的な疲労の原因は…。
やはり誠之進が言うように、己の抱えこんだ責務が限界をこえはじめたのだろう。
そんな折、内藤帯刀が会見を申し込んできた。
主膳に報告すべきだろうか? 誠之進に相談すべきだろうか?
帯刀は右近ひとりを茶屋へ呼び出した。孫作をつれていくのはともかく、藩校時代ではあるまいし、呼ばれもしない誠之進に同行を求めるなど、やはり大人のすることではない。
何が起ころうと、いかねばなるまいな…。
帯刀が今、自分を害するつもりだとは思えない。おそらくは何らかの取り引きを持ちかけてくるのでは、と右近は踏んでいた。
(面白い…。場合によってはこちらが利用してやろう…)
右近は己を鼓舞するかのように胸の中でつぶやいた。
初秋の宵。月も出ない漆黒の闇は、どこまでも深く暗かった。
つづく
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壁紙は『studio blue moon』さんからお借りしています。
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