八の巻「曼珠沙華」4



by 戸田采女

 惣一郎の乗り物に押し込まれるようにして、藩邸に戻ってきたのは亥の刻(午後十時)近かった。

 唇まで血の気を失った、半病人のような右近を自分の乗り物に乗せ、仙之丞や若党二人と徒歩で帰ってきた主を見て、出迎えた者たちは一様に驚愕した。

 能面のごとき無表情の下、惣一郎は静かな怒りをたぎらせていた。
下手に声をかければ逆鱗に触れそうな気配に、皆が面をこわばらせていた。
惣一郎が玄関の式台に腰を降ろすと、ようやく小姓たちがたらいの用意を始めた。
土ぼこりまみれた足袋を脱がし、たらいの水で丁寧に主の足をすすいでいる。

 乗り物から降りた右近は、仙之丞と若党に両脇を支えられ、玄関先までやってきた。

 「もう…歩ける。大丈夫だ」
右近は仙之丞に力なく微笑んだ。
仙之丞が耳元に囁いた。
「後で…湯殿の用意をいたしますから…」
ぴくりと右近のこめかみがひきつったが、
「…すまぬな。仙之丞」
睫を伏せて小さく頷いた。

 右近たちが中へ入ると、丁度足をすすぎ終えた惣一郎が式台の上に立っていた。
惣一郎は目線を真直ぐに右近にあてると、
「…右近。処分は追って沙汰する。…部屋で謹慎しておれ」
抑揚のない声で言い放った。

 仙之丞が思わず前に進みでて膝を折る。
眦を決し、主を見上げて言った。
「若殿! 処分とは、如何なるお考えにござりますか?!右近様には何の罪もごさりませぬ!」
「仙之丞、よさぬか!」
右近は仙之丞のすぐ後ろに跪き、袖を引っ張って諌めた。

 惣一郎は二人を冷ややかに一瞥すると、無言で背を向けて、小姓二人を従えて居室へと歩み去っていった。




 ひとり、自室に戻った右近は、一度は部屋の中ほどで端座して、仙之丞が呼びに来るのを待とうとした。
だが、薬のせいで未だ身体の芯に力が戻らず、仕方なく畳の上に横たわった。


 天満屋の寮での茶番劇に幕を引いたのは惣一郎だった。


 惣一郎の借財の件で話があると、天満屋の根岸の寮へ呼び出された。
証文を突き付けられ、あまりの金額の多さにうろたえたところ、まんまと茶に混ぜて薬を盛られた。
意識を失った後、目覚めてみれば、緋色の絹夜具の上に寝かされていた。
周りには絵師や版元が準備万端整え、饗宴の始まりを今か今かと待ち受けていた。

 全ては天満屋が、右近を枕絵の絵姿にするべく仕組んだ罠だった。

 とどめを刺すがごとく、絡む相手として引き合わされたのは、誠之進に瓜二つの男。
この春に偶然、花見の宵に出会った勤番侍の日下賢吾だった。

 右近は薬で四肢の自由を奪われ、日下は借財を盾に娘を吉原に売ると脅され、天満屋たちの下劣な企ての餌食になった。

 武士の矜持は命より重い。

 斯様な辱めを受けるくらいなら、舌をかんででも命を断つべきであったが、まだ八歳の日下の娘が苦界へ身を落とすのは、右近とて見るにしのびなかった。

 身体は鉛のように重く、日下を押し退けることもできなかった。
誠之進によく似た瞳で「娘を助けてくれ」と懇願され、右近はとうとう抵抗を諦めた。

 だが、肌を合わせているうちに、日下はこれが演技だということを忘れた。

 惑乱した右近も、徐々に誠之進と日下の区別がつかなくなり……天満屋や絵師の眼前にあられもない姿態を曝し、最後には日下の手で吐精させられた。

 解放の余韻に浸りながら、右近は陶然と愛しい友の名を呟いた。

 間を置かず、襖が開き、数名の武士がなだれこんだ。

 うっすらと目を開けると、唇まで蒼白になった惣一郎が、虚ろな瞳で緋色の夜具の上を見下ろしていた。




 奸計にはまったとはいえ、大名家の家臣が枕絵の絵姿にされたのだ。
いくら部数が少ないとはいえ、斯様な摺り物が世に出ては、己だけでなく主家の恥になる。

 もはや生きてはいけぬと思った。

 右近は泥のような眠りに引き込まれつつ、静かに覚悟を決めていた。




 仙之丞が呼びに来るのを起きて待つつもりであったが、右近は極度の疲労から、四半時もたたないうちに深い眠りの中にあった。

 翌日、明け方近く、右近が目覚めてみると、身体の上に綿入れの着物が一枚かけられていた。
おそらく夕べ仙之丞がかけていったのだろう。

(優しい子だな…)

 右近は柔らかく口元を綻ばせた。

 仙之丞にも下帯一枚で男に抱かれていた姿を見られている。

(御事は私を穢らわしいとは思わぬのか…?)

 あの後、仙之丞は労るように右近に着物を着せ、乱れた鬢を直し、歩くときには脇から支えた。
藩邸までの道程も、乗り物の側を片時も離れなかった。

「…憐れんでいるのやもしれぬな」

 右近は胸の奥から重い吐息をついた。


 日が高くなる前に、済ませてしまいたいことがあった。

 右近は起き上がると、まず簡単に身支度を整えて湯殿に向かった。
この時間ならまだ他の藩士が使うことはない。
丁度、起き出してきた下男に命じて湯をたてさせ、右近はゆっくりと身を浄めた。
 
 部屋に戻って顔を剃り、月代に剃刀をあて、髪も切りそろえて入念に結った。

 小袖は無論、白。
その他、下帯にいたるまで全て新しいものを身につけた。

 一通り身支度を整えると、脇差を取り出し寝刃を合わせた。
応永備前、長船康光一尺六寸の脇差である。 先日、田沼邸の剣術仕合の後、惣一郎から賜った拝領の備前刀だった。

 たった一月もたたぬうちに、このような形で使うことになろうとは、いったい誰が予想しただろう…。


 万端整えて、静かに書見をしていたところへ、仙之丞が朝餉を運んできた。
「…よくお休みになれましたか?」
「うむ…」
言葉少なに応える右近を、仙之丞は暖かい瞳の色で見ると、いそいそと給仕を始めた。

 本来なら今日は食事を抜いておきたいところだったが、仙之丞にへたに気を回されても困る。右近は少しだけ箸をつけることにした。
 
 やがて、既に一部の隙もなく、身支度を整えている姿に気がついたのだろう。
「今朝はずいぶん早く起きられたのですか?」
「ああ。夕べあのまま畳の上で寝てしもうたゆえ…、早く目が覚めた。…綿入れをかけてくれたのは御事か?」
「…はい」
「かたじけない」
右近に謝意のこもった眼で見つめられ、仙之丞は頬を赤らめて、小さくかぶりを振った。

「若殿は…いかがしておられる?」
「先程、朝餉をすまされ、お庭のほうにゆかれました…」
「そうか…」

 お怒りか…と聞くのは愚問の極みだった。

 仙之丞は知るまいが、惣一郎の怒りは、枕絵の絵姿という、破廉恥な所行に向けられているのではない。
 右近にはわかっていた。
惣一郎が声も出ぬ程の怒りに唇を震わせた、真の理由は…。


 天満屋での一幕は、右近にその意志がなくとも、惣一郎のまごころを踏みにじったも同然だった。

 あれほど辛抱強く、右近の心が傾くまで待ってくれたものを…。

 その心情に打たれ、このまま江戸に残ろうと心を決めかけた矢先だった。

 だが…、自分は惣一郎を手酷く裏切った。

 誠之進に瓜二つの男の手で遂情し、快楽に緩みきった顔を見られたのだ。

 弁明の言葉もなかった。


「右近様…?」
箸を止めたまま動かない右近を、仙之丞が案じるように見つめていた。

「ありがとう、仙之丞。もういいから下げてくれ」

 ほとんど減っていない膳を見て、仙之丞が悄然と肩を落とした。
右近は、悲しげな後ろ姿で膳を下げていく、仙之丞の後ろ姿を見送った。

(仙之丞…御事は気ばたらきのできる、誠に心根の優しい小姓だ。これからも惣一郎様にしっかりお仕えしてくれ…)




 終日、右近は肅然として、惣一郎からの呼び出しを待っていた。

 身辺を整理する。

 といっても、右近の場合、借りた書物を貸し主がわかるように、仕分けしておく程度のことだった。

(着物は適当に処分するがいい。鼓は…)

 右近は愛用の小鼓を手に取った。
誠之進や惣一郎の謡の稽古に付き合って、よく打ったものだった。

(…鼓は国許の母上に送ってもらおう)

 病弱な母と爺やのことを思うと、右近の目頭が熱くなった。




 陽が落ち、夕餉の時間が来ても、惣一郎からはいっこうに沙汰がなかった。近習の者が運んできた食事も、朝餉同様、申し訳程度に箸をつけただけで、下げるように命じた。

 近習の者が去ると、右近は障子戸の外、濡れ縁に出て空を仰いだ。

 宵闇ではあったが、今宵の江戸の空には無数の星がきらめいていた。
庭園内の柳が夜空に乱れなびいているのも、素袷の白小袖一枚の右近を肌寒くさせた。




 夜が更けていく。

 辞世の句も考え、とうとう他にすることがなくなった。今日中に御沙汰がないのであれば、明日も朝から同じことをくり返すのか…と、右近は微苦笑を洩らした。

 目を閉じれば、やはり浮ぶのは誠之進の笑顔だった。

(刀は…大小とも誠之進の手に渡してもらおう…)

 江戸と国許に別れたまま、こんな形で友誼が終るのは本意ではなかった。

 こんな形で命を終えるなら、軽蔑されても拒まれても、想いを打ち明けるべきであった。

(未練だな…)

 結局、己の頭の中には誠之進のことしかないのか。

(我ながら度し難いな…)

 乾いた笑いを洩らしたことろへ、廊下を渡って来る静かな足音を聞いた。


「仙之丞…」

 仙之丞が緊張した面持ちで右近の前に立った。

「若殿が…お召しです」

「承知した」

 右近はうっすらと笑みを浮かべて頷くと、仙之丞の後に続いて自室を後にした。


つづく



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