ライター・編集者の飯田一史さんとSF・文芸評論家の藤田直哉さんによる、話題の作品をランダムに取り上げて時評する文化放談。前編記事に続いてアニメ映画『この世界の片隅に』について語り合います。

宿命を受け入れる映画なのか、そうではないのか

飯田 近いのに遠いというか、隣なのに別世界。そういうことの連続を描いている作品ですよね。原爆が落ちた広島の隣の呉、同じ「鈴」という名前を持ちお互い貧乏暮らしをしていたのにかたや遊郭で働いているりん、不発弾でとなりで亡くなる晴美。そういう人たちがいるなかで生きているからこそ彼女は「この世界の片隅」にいるのだと思っているという気がする。もしかしたら死んでいたのは自分だった、という場所に誰だって本当は生きていることを思い起こさせる。

藤田 そうですねぇ…… 生きるも死ぬも、どんな境遇に生きるのかも、ほんの紙一重だっていうのが、よく伝わってきますね。まったいらになった呉を見て、津波が来た地域を連想する人も多いでしょうね。「復興」って書いてある看板も描かれていたと思う。  しかし、そのような偶然性、運命性、宿命性みたいなものを、こんなに受け入れすぎていいんだろうか。人間が抵抗する余地が全然ないようなものとして描いてしまっていいんだろうか。現実の社会問題や、階層の問題も、政治的行為としての戦争も、人間が作り出していることであるから、人間が解決できるものですけれどね。少なくとも、人間の力で解決しようとする人が出ることが自然なものではある。… 「変えられる」けれども、程度がありますからね。なんでも好き放題できるわけではない。

藤田 すずは、絵を描くことで、シアリス 通販現実を「上書き」できる。今で言う拡張現実的な想像力を持っている。すずの描く絵が、時々、映画内の「字の文」に相当するところに使われる。……それが、アニメーションそのものの機能を自己言及しているようで面白かったものの、しかしそう考えると、悲惨な現実を美化して鈍感に生きることを肯定するアニメなのか、って思ってきて、なかなかにそこは悩ましいと思います。『君の名は。』と同じ問題系ですけれど。

飯田 決して「悲惨な状況を甘受して生きろ」というメッセージではないと思ったけどね、すずたちの態度の描き方については。 今年はすごく貧困本が出た年だったけど、中村淳彦さんの『女子大生風俗嬢』を読んでもさ、たとえば慶應とかだと幼稚舎からきているボンボンもいれば、学費も生活費も自分で払って通っている地方の子とかもいて、後者は普通の時給のバイトを目いっぱい入れて生活しようとすると威哥王時間も体力も限界になってむしろ学生生活が破綻する、したがって風俗で働くほうが合理的な選択に映るという人もいるわけです。「なんで同じ大学の学生なのに向こうはぽんぽんお金使っていて、自分だけこうなんだろう」って思ったりする。制作陣が意図的かどうかはともかく、みんながまあまあお金がある時代じゃなくなった今の時代と、この映画で描かれているものとは、重なるところがあるなと僕は感じました。…


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Last-modified: 2017-05-08 (月) 18:45:06 (2544d)