第十九話〜浴槽〜


...どれほどそうしていたかな。もうあの振動音も衝撃音も聞こえなくなっていた。
風が吹いて、衣が擦れる音と、バサバサという風に靡く音だけが響いている。
結界は解かれておらず、鶺鴒さんも鎌を槍の様に構えたままの姿で静止していた。
その静止が不意に解かれる。挙動ゼロの状況からの立ち直り。さっきまで同様の、飄々とした風貌に戻り、白黒が去っていった空を見上げて。

「逃げた、いや違うか。どっか行っちゃったわね。アタシ達に興味はうせたって感じかな。
ネミネー、も、いいよ。解除。気配も消えちゃったみたいだし。どっかに融けちゃったかね」

鶺鴒さんの言葉に応じるように、嶺峰さんが五つの角に分割したのを帯電を鎖のように引き戻し、元の星型八角錘へと形成しなおす。
結界の中から解き放たれた反動で、体中の緊張も一気に解けた。
腰が抜けて、何だか涙目みたいになって、思いっきりその場に女の子すわりでへなへなってなってしまった。
緊張が解けない筈ないし、緊張しっぱなしのわけでもない。
となると、張り詰めていた緊張の糸を急激に撓めるものだから、腰が抜けちゃうのは至極当然。
哀れ私。魔砲少女ルックの二人の前で情けない腰抜け姿ですよ。まぁ、私自身はあんまり気には止めないんだけどね。

「アーニャ様、ご気分が優れないのですか?直ぐにキノウエ先生の処へお運びいたしますわ。鶺鴒様、戻りましょう。アーニャ様のご様子が優れませんの」
「んー?サポートちゃん?あー大丈夫だいじょうぶダイジョウブ。きっと鋼性種の特殊変質型、突然変異って言ったほうがいいかな。それ見ちゃって腰抜かしているだけでしょ。
ならキノウエセンセの処に運ばなくったって背負って言っている間に立てるようになっているわよ。
え?何?それとも失禁?別に恥ずかしい事じゃないわよー。アタシ達だって始めあーゆーの見た時はちょーっとちびっちゃったし。ねぇネミネ」

いえわたくしは、と即答する嶺峰さんもなんのその。鶺鴒さんは殆ど周囲を無視してマシンガントークに華を咲かせる。
まるでさっきまで押し黙っていた鬱憤を開放するかのような勢い。
まさに言語の開放。人間が持つ"会話"する"言葉"と言うものをフル活用する人のようだわね。
ちなみに、私は鶺鴒さんの言うとおりに失禁などしてない。
腰が抜けただけと言ったら、腰が抜けただけだ。それ以上もなければ、それ以下もない。
変な期待をされてもらっては困るから、釘刺しておくけどね。
で、妙に胸元がぐしょぐしょするものだからひっぱってみて怪訝なフェイス。
だってレッケル、口から泡吹いているんだもん。そりゃ胸元がぐしょぐしょにもなるわけよ。着替え決定ね。

「じゃあ帰りましょうか。キノウエセンセにも報告報告。突然変異型出現...っと。特徴は出たり消えたりで、ホライゾンには激突したけどヴァーティカルには反応なし...と。他になんか特徴あったっけ?
ああ、白黒のストライプね。そんなのはそこのサポートちゃんの下着程度でいいわよねぇ。今時しましまパンツなんて流行んないわよ。ホラ、行くわよ」

恐らくは勝手に私はしまぱんを履いているのだと決め付けられてしまったらしい。誰がしまぱんよ、しまぱん。
そんな突込みを入れたくっとも、腰が抜けてまともに立てないこの状況ではあんまり意味ない。したとしても、小ばかにされるのがオチ。
しかも人が腰を抜かしているのを知っているのかいないのか、いや、確実に知っているくせに早く行くわよとか言う始末。こっちは立てないんだってば。
と、ふわりと両腕で私の、小さな身体が持ち上げられる。
言ってみればお姫様抱っこ。女の子の誰もが幼い時は憧れるって言う、でも、大人になるにつれてそんな幻想は持たなくなっていくあの抱っこのされかた。
誰がしたのかなどは問うまでもなく。私の顔のほぼ真横に、静かに嬉しそうな笑顔を浮かべる嶺峰さんが居た。
にしても、私を結構軽々と持ち上げられるなんて女の人としてはかなりの力持ちさん。
まぁ私の体重が軽いってこともあるんでしょうけど、それでも大したものだわ。

「では参りますわ。ご安心を。鶺鴒様も申されるとおり、キノウエ先生の下へ付くまでにはきっと治っていますわ」

是非そうであって欲しい、なんて心の中で願ってみる。
さすがに腰が抜けた程度には治癒魔法も効果なしだもの。
腰が抜けたって言うのは外傷ではなくて、内傷でもない。精神的な疲弊、疲労、浪費から来るもの。心が折れるって言うのに近いものだから、これはどうしようもない事なの。
早く治れ早く治れなどと呪文のように呟く。
正直に言いますとね、この格好は極めて恥ずかしいの。
確かに女の子よ、私。でも、魔法使いだから冷静でなくっちゃいけない筈。
だと言うのに、あんなワケの解らないものを見た程度で腰を抜かすなんて一生の不覚。
レッケルなら"そんなのは気にしないですですぅ"なんて言うだろうけど、そのフォローを入れられるたびにどんよりしていた事、レッケルは果たして気付いていたのかな。
ゆさゆさと揺すられながら中等部の校舎へ向けて行く。
正確には行っているのは鶺鴒さんと嶺峰さんだけなんだけど。その腕の中で小さくなりながら、星一つだけの空を見上げ、妙な気配を感じたから後ろを振り返ってみた。
世界樹。巨木と言う名の、私の住んでいる、ここに居る間だけの私の城。
その根元に、夜の闇に溶け込んでいたかのような黒い四角錘が突き出しているのは、見ないようにしながらふぅっとため息をついた。

――――――

腰が抜けていたのは、結局治りませんでした。
腰抜けアーニャのまま生物準備室の椅子に座って、嶺峰さんが買ってくれたおしるこって言う、胸焼けしそうなほど甘いのを飲みながら三者の観察。
さっきまで交戦していた、あの白黒のコトを話しているらしい。

「と、言うわけでありまして。キノウエセンセには今日交戦した新種、あるいは突然変異型と思しき鋼性種の対策について考えてもらって良いですかー。と言うか考えてください。
アタシは忙しいし、ネミネも他の鋼性種相手に大変だろうし、サポートちゃんは腰抜けてるし。
今現在の段階で交戦相手の対策を考えられるのはキノウエセンセだけでーす。じゃ、お疲れー」

言うだけ言って、鶺鴒さんはここに来たとき同様の桜色の着物に袖を通したまま、明らかにその格好には似合いそうもないつばの長い円形帽子を被っていってしまう。
こっちのお話なんて聞くも聞かぬも知らぬ存ぜぬ。
相変わらずの我関否(ワレカンセズ)を貫いて、とっとと生物準備室から出て行ってしまった。
残されているのは白のワンピース姿の嶺峰さんと、腰が抜けたまま脚をぶらぶらさせている私と、こっちに背中を向けたまま、微動だにもしないキノウエって人。
この状況は正直辛い。
とにかく、この二人、口数がまるでない。
嶺峰さんが無口じゃないのは知っているけど、どうにもキノウエって人の前だと余計な事を喋ってはいけないからって黙ってしまうのだ。
まぁ格段喋るような事もないから私は黙っているんだけど。このままじゃまるっきり進展と言うものがないように思える。
一人は喋らない、一人は喋る必要ない、で私は喋る事がない。まさに無口の三拍子。
ずずっと甘い飲み物を啜る。静寂の中で響くのはそれだけ。

「―――でさ、新種とか突然変異って、どゆこと?」

あんまりにも静かなものだから、一番何も言う必要のない私が自ら切り出してしまった。
でも、本当言えば何一つ言う事がないと言うわけでもない。ただ、個人的に聴きたい事があっただけ。会話のネタはあらずとも、質問の種はあったということだ。
それがコレ。
別に新種とか突然変異とかの意味が解らないわけじゃない。
魔法使いになるときに学んだ学問の中には生物学もあったし、頭痛くなるほど詰め込んだ知識の中にはそう言うのがあったって言うのはよく覚えている。
つまりは聴きたいのは、アレに、新種とか突然変異とかの概念が存在しているかどうかと言う事だ。

「新種と言うのはこれまでの経路において一度たりとも視認されず、記載されていない種を意味す。
今回三名が出会った鋼性種は特殊な型であり、今までの経歴上一度として確認されていない型でもある。
ただし、この鋼性種が真に鋼性種であると言う決定的な証拠があったとするならば新種ではなく、鋼性種の突然変異種に分類される。
新種とは形態的、遺伝的な検討あらずば新種としてもあるいは突然変異としては認定できない。
なお、突然変異と呼ばれる形態の変化は別名で不連続変異とも言われている。即ち、連続した規則的な変異ではなく、唐突な不確定要素介入による変異発生である為である。
もし、この変異が異伝に対し発生した場合のみ突然変異と呼称される。
知っての通り生命体の多くの基礎は遺伝子である。遺伝子と言う設計図より生命体は構成されている。
設計図に変異が生じればその完成した実態にも変異が訪れるのは至極当然。
今回出現した鋼性種が本当に鋼性種であるのであれば突然変異に該当、そうでなければ新種に該当される。
なお、突然変異に分類されるのであれば、今回のこの構造変化は『重複・転座・欠失・切断・逆位』以上全構造変化が該当すると思われる。
だが以上の全ては仮定の域を出ない。鋼性種の検討はあまりに不足している為である。突然変異であっても、人為的突然変異ではないと核心で言えるが、自然的突然変異であるとも確信は出来ない。
これは己の仮定ではあるが、鋼性種という生命体から考えるに自己突然変異、自己進化に近いものではないかと推定できる」

ふぅんなどと、判った振りをして見る。
つまりは、あれだ。やっぱり何にも判らないと言う事だ。
突然変異なのか新種なのか進化なのか、あるいは、口には出していないけれど退化なのか。その何れでもないのかすら解らない。
解らない事だらけで、結局は解らないで終わってしまう。
脚を木製の床に置いてぎゅっぎゅと力を込める。
まだちょっと力の入り具合は効かないけど、立ち上がるには苦心しなさそうだ。
そう考えるが早いか、私は立ち上がる。ちょっと前のめりに倒れそうになったのをなんとか両足で踏ん張って堪えて、一呼吸。よっし、大丈夫。

「お帰りになられるのですか?」

頷いて出口に向かう。
私が聞きたかったことも所詮は大したものじゃない。
ちょっと冷酷かもしれないけど、私にとって鋼性種という生命体は関わる必要のない存在なのだ。
始めはそもそうだった。鋼性種なんて知らないで此処に来て、彼女に出会ってから付き合いだしちゃった変な生き物。
解らなくてもいいんだけど、気になったからには聴かずにはいられないのが私の悪い癖。治そうとしても治せないし、治す気もあんまりない癖。
ここに居る意味はもうない。
後の事はキノウエって人に任せて、今は一刻も早くこのぐしょぐしょになっている上着を着替えたいのです。
レッケルは胸元に入れたままで、少しでも水気が肌に伝わらないようにしている。そうでもしなくちゃ、気持ち悪くってこんなの着てなんていられないのよ。
ちょっと振り返ると、むぎゅっと真っ白いものに包まれた、福与かな二丘で視界がふさがれる。
顔を挙げてみれば、にこやかに笑っている嶺峰さん。
どうやら今日も私と一緒に来るらしい。
それはそれで嬉しいと言うか、緊張してしまうんだけれど怪訝にも出来ない。
折角お友達になろうと、いや、もうお友達なのかもしれない人と一緒なのだから、別段嫌な事はない。そう言うことで、今日も撤収、と思ったところで。

「暫く今日から二人とも休みだ。しっかりとした策が出来たら連絡する。羽でも伸ばせ。以上」

お互いに顔を見合わせた。背後からかけられた声は紛れもなくキノウエって人の声。
振り返っても、見えるのはその人の背中だけだ。
でも、ちょっとだけ雰囲気が変わったようにも見えた。いい人のような気配じゃないけど、でもあれだ、先生っぽい気配。生徒を大事にする人の、そんな雰囲気。
その後姿に嶺峰さんは一例だけし、またにこやかな表情へ戻っていた。
私はと言うと―――特にあの人に思い入れがあるわけじゃなかったから、精々その言葉を好意として受け取る程度しかしなかった。
尤も、それが普通だ。そうするのが私としては、一番正しい。
二人並んでその場を後に。
残ったのは、さっき見た巨木の根元にあったと思われる四角錘と同じ、真っ黒い姿のみ。

――――――

とことこ二人で夜を帰る。
でも、何でか知らないけど、帰っていく先は私の居住区画である巨木の根元方面ではない。
嶺峰さん曰く、まだあそこにはあの鋼性種が居るかもしれないから、お着替えぐらいは私(わたくし)の家で致しましょう、と言う申し出を受けたのだ。
従って、今現在私が向かっているのは嶺峰さんのお宅方面。
しかしよく考えるとアレだ。
私も度胸があるというか、無鉄砲と言うか。どうにも無神経な処が在るようだわね。
だって考えても見れば、今まで私が鋼性種と出会っているのは、全てあの巨木の下だ。
あそこが鋼性種って生き物の発生場所であると断定は出来ないけど、まだあそこ以外の場所で鋼性種を見たことはない以上、あそこが一番出現確率が高い。
そんな場所に根城張って生活しているんだから、タフと言いますか無神経と言いますか。
まったく、冷静に考えて行動するのを是とする魔法使いだって言うのに、未だにあんな場所で生活しているんだもん、自分の気が知れないと言うのはこう言うことなのかもしれない。
相変わらず空は暗かった。
井戸の底の様に、空に浮かんだ一筋の月光がますます井戸の出口のように思わせてくれる。
その横に佇む一つの星。今日の夜になって、初めて見つけたあの星かな。鋼性種とぶつかり合っていても、格段何かをしてくれるわけでもなかった星。
当然と言えば当然の事なんだけど、折角井戸の出口みたいになっているんだから月からは神様かなんかは覗いていても撥にはならないと思いたい。なんて、いもしない神様への愚痴をこぼしてみる。
勿論本心からじゃない、本心からだといざと言うとき本当に頼るべきものがなくなってしまうからだ。
夜道を歩く二人。時折胸元に触れる不快な水の感触が嫌で、何度も胸元を開いては空気を取り込む。
そうでもしないと、早く乾かないだろうし、何より具合が悪くていけない。
そんな様子を横目で見ている嶺峰さんが笑っていた。幸せそうに、でも、私だけにしか向けられない笑顔で。
恐らくは、向けられれば誰もが拒絶してしまうような優雅さと異質さを以って、その笑顔を私へ向けていた。

「―――そういえば、明日って休日だっけ?」

堪えられなくなったわけではないけど、唐突に思い出したことが口から出てしまった。
......いやいや、ひょっとしたら私は、何らかの形で話を切り出したかったのかもしれない。
あのキノウエって人の時とはちがい、随分な露骨な態度の変化かもしれない。
でもね、私だって人間だから、好き嫌いもしちゃう。
キノウエと言う人の事には特に何も持ってはいないけど、好きになりにくい、でも嫌いにはなりきれない感情は持っている。
そして嶺峰さん。今のところこの地で一番親しくなって、でも、去る時には誰よりも一緒だった思い出を消していかなくっちゃいけない女(ひと)。
はい、と言う一言。
それは明日が休日ですねと言う意味ではなく、明日も私には特に何もありませんと言っているようにも聞こえた。

「何かないの? 嶺峰さんだって女の子でしょ?休日ぐらいはぱーっと大騒ぎしてもバチは当たらないと思うんだけどな」

まったくの本心だった。
彼女は普通の女の子として過ごせば、その異質すぎる優雅さと幽玄さを覗けば普通に生活と言うものが出来る人なのに。
でも、嶺峰さんにはその気はないようだった。
相変わらずに笑ってやり過ごし。
いや、やり過ごすと言うよりも、そういった事を考えていないんだ。取り敢えずは、今、こうして私と一緒に居れる事の方に目が行っちゃっていて。
だから、少し悲しくなった。
一緒に居て、良く知っているようで、私は彼女の事はよく知らない。
知っていると言えば、魔法少女をやっているだとか、ちょっと不思議な人だとか、綺麗な人だとか程度。
普段の生活なんて、予測も出来ないし、どんな日常を過ごしているのかなんて、想像はしても、一回も目視はしていない。
本当は、見ないようにしていたのかもしれない。
一人ぼっちみたいなものだったから、だから、そんなのは見たくないと思って、ずっとずっと、避けていたのかもしれない。

「さ、着きましたわ。どうぞおあがりになって下さいまし」

顔を上げた。
いつの間にか、彼女の着ている真っ白いワンピース同様の真っ白い一軒家の前に立っている。
雪化粧をすれば、そのまま雪の白に埋もれてしまいそうなほどに白い家。
雪の日の郵便配達の人が捜すのに苦労しそうな一軒家なんだけど、夜の黒の時に見れば一掃際立つ、なんだか、全体が淡く光っているような、清水に浮かぶ、一匹の蛍のような家。
周囲にはご近所さんといえるような家は見当たらない。団地から外れた、山の一軒家みたい。
そんな陸の孤島のように異質な家の中へ案内される。
異質とは言っても、中に入ってしまえば差ほどの変化もない。
普通の、典型的な一軒家。
入り口から入れば、奥に続く廊下と、二階へ行く階段が直ぐに目に入る。そうして嶺峰さんは私がちゃんと靴を脱ぐまでは、ずっとずっと見守り続けていた。
脚を木造の廊下に乗せる。心地よい感触がいした。何かな、そうだ、故郷の香りが足元から立ち込めるんだ。
故郷の家も、廊下は木造。走る度に木同士が擦れ合う音が耳をついて、二階で騒げば直ぐにでもお母さんが騒ぎ出す、あの音がここでも響いたんだ。それが変に心地よくて、妙な笑顔を浮かべてしまう。

「良かった。やっと笑ってくださいましたわ。
アーニャ様は笑顔の方が良く似合っていますわ。アーニャ様が深く考え込んでいる顔、見ていて辛いですもの。笑っていてくださいませ」

そう言われた。きょとんとしている。
そんなに考え込んでいるときの顔って酷いのかな。私としては、考えていたり行動していたりする時の方が私らしくていいと思うのだけれど。
考えながら手を握られて、二階ではなくそのまま廊下の奥へ連れてこられる。
直ぐに解った。お風呂場。着替えるならば、確かに此処なんだけどね。

「アーニャ様?お風呂には入ってはいらっしゃられないのですか?髪の毛が少々べたついていますわ。丁度お湯も張っておりますわ。一緒にどうでしょう?」

はて、考えてみればそれもそうかもしれない。
昼間は昼間でネギの監視、夜は夜で嶺峰さんとかに付き合ったり、鋼性種の出現で考える事いっぱいになったりだったものね。
うわっ、思い返せば思い返すほどお風呂に入ってないや。
それは拙い。女の子としてと言うか、人としてと言うか、そも生き物として拙い。
どんな生き物だって水浴びぐらいはするって言うのに私は数日ちょっとそれをしていない。それは拙すぎる。
服をくんくん嗅いでみる。なるほど、確かに臭う気がしないでもない。
さっき噴出していたレッケルの泡の所為じゃない。純粋に、数日間身体を洗っていない人の匂いがそこはかとなくする。
まだ大気に染み込む様な匂いじゃないけれど、あと数日ほおっておけば、間違えなくその領域まで行っていたであろうってぐらいの臭いはしてる。
匂う、はいいけど、臭いは拙い。絶対に拙い。

「...一緒に、いいの?」

狙ってもいないのに上目遣いになっているのは正直恥ずかしいからである。
あくまでも、変な趣味とかがあるわけじゃない。
嶺峰さんの裸が気になるなーとか、そう言うやましい考えがあるわけでもない。
って言うか、私は女なんだから別の女の子の体つきに興味なんて覚えない。覚えない。覚えない、気がする。ああもぅ、でもなんで顔が赤くなってるのよ。
ちらと、顔を上げて嶺峰さんの顔を確認。
笑っていた。別に嫌な気分にはならない、穏やかな、いつもどおりの笑顔で、私を見ている。
すっかりその笑顔にも慣れちゃっていたのに、今現在の私にはその笑顔が何だか痛い。
きゅうんって締め付けるようなって言うか、これじゃあ恋みたいじゃないのよ。
そんな私の思惑を理解しているのかどうかは解らないけど、にこにこ笑って嶺峰さんは。

「ええ、誰かと一緒にお風呂に入るのは初めてですわ」

そんな、爆弾発言をしてくださった。

 

からからとお風呂場の引き戸が開かれ、もわっとした湯煙の中に送り出される。子供じゃないんだから、いや、充分子供なんだけどね。
でも、送り出されるって言うのはちょっと恥ずかしい。でも、事実だからしょうがない。
お風呂場に連れてこられて、マントの方はさほど汚れも匂いもなかったそうなので一先ず良いんだけれど、来ていた上着やスカートの方はそうも行かなかった。
思い出すと、私ってテントの中で雑魚寝だし、しかも着替えとかしていないって事に気付く。
...ああ、確かにそうだわ。
初日はいきなり黒い四角錘の所為で寝てなくて、二日目は嶺峰さんが目の前に現れてそのままの格好で寝て、昨日は昨日で嶺峰さんと一緒に寝て、そのままの格好だったっけ。
一切着替えなし。まったく、そんな事に気付けないなんて、冷静さを失っている証拠だわね。
尤も、魔法使いにおしゃれとかの思考回路は余計なものだ。
そんなものはそもそもしているような余裕はない。
そんな事を思考している余裕があるのなら、もっと高みを、もっともっと技術を磨いて、もっと多くの命を助けられるように、もっと多くの助けになれるような努力をすることが大事だ。
だから、自分の事になんて気を割いているような余裕は本来は存在すらしていないのよね。
でも、それでもおしゃれでなくても着替えをしていなかったって言うのは痛い。
人付き合いは少なくとも、いざ人付き合いをしなくちゃいけないような時、体臭がした、なんて事になったら一生の不覚もいいところだ。女の子としてのイメージが壊れてしまう。
イメージって言うのは結構大事なのだから、それを保つためにも日々の身だしなみは重要なのだ。

「先にお湯を浴びていて下さいませ。私(わたくし)はお着替えを用意してきますわ」

背後からした声の後、ぱたぱたと遠ざかっていく音。
はて、にしてもお着替えと言う事は、きっと私の着替えなんだろうけど、何処から持ってくるのかな。
私の着替えはテントの中だし、テントから取ってくるってワケでも、きっとないと思うんだけど。
深く考えていてもしょうがないので、お風呂場の椅子に腰掛けてお湯をひとかけ。
随分久しぶりのお湯の感触に、ちょっとだけ嬉しくなる。
髪の毛がさらさらになった時のイメージもすると、やっぱり嬉しい。
女の命は髪の毛なのだ。その命がべたついていたなんて、もぉ絶対堪えられない筈なのに、それに気付けなかった私は馬鹿だわね。

「みゅーん」
「お、起きたわねレッケル。アンタの好きなお風呂よ、ゆっくり休みなさい」

頭上に指を伸ばしてしゅるしゅると腕を伝って白蛇が降りてくる。
今まで気絶していた所為か、どことなくぽけぽけっとした顔立ち。
まぁ落ち着いて、そんで思い出して大騒ぎされるよりはましな状態だ。忘れたままというのなら、それも構わない。
私だって、本音は忘れたい。
何しろ、魔法使いでも理解できないモノに遭遇してしまっているんだもん。忘れられると言うのなら、忘れたいと思うのが本心。本心だけど。

「.........む」
「みゅ?」

ちょっとバカな事を考えて、自分で自分にむかついた。
忘れられるなら忘れたいなんて、そんなの自分勝手だ。
彼女は違う。ちゃんと見ている。見ない事には出来ない。私も一緒に見ていた。
アレが、現実の品物である事は一緒に居た私が一番よく知っているはずじゃないの。
だったら、私も向き合わなくてはいけない。アレが何であれ、私も一緒にアレの存在をしっかりと見定めなくちゃ。
お湯にぷかぷか浮かんでいるレッケルの頭を、指先で軽く撫でる。
心配そうな顔つきをしていたから、安心させてあげるように。
この子は感受性が強い。水の精霊で、自然界の変化に敏感だと言うのもあるけれど、何より、長年とは言わずとも、日長一日一緒に居る仲だもの。
私の小さな心境の変化だとかを見抜くには普通にしているように見せても見抜いてしまう。それは少し嬉しくて、頼りがいがあるものだ。

「アーニャ様?お湯加減はいかがでしょうか」

嶺峰さんの声。
考え事をすると時間の経過が早くなるのは毎度の事だけど、接近にも気付けないのは集中力散漫の証拠だ。
魔法使いの命は集中力。ソレが散漫することは致命傷にもなることがあるから、これはちょっと反省よね。
っと、考え事をしている場合でもない。
折角嶺峰さんがお風呂を用意してくれたと言うのに、結局まだ一回お湯を浴びただけで済ましてしまっている。
手を湯船に浸す。温度は適度、伊達に火系の魔法使いを扱っているわけじゃないので、温度の変化には敏感だったりするのだ。
ざぶんと、肩口まで一気に浸かる。
身体が少しずつ火照っていく感じは結構好き。それが火系の魔法使いだからなのかは解らないけど、昔っからなんとなく身体があったまっていく感じは好きだった。
日向ぼっこも好きだし、そうだからか日光浴も好き。身体が暖まっていく感じは好きな方なのだ。
入った湯船は結構大きめ。
なるほど、私と嶺峰さんが一緒に入ってもお湯が溢れる程度で済むぐらいの大きさの湯船だ。
いや、別に一緒に入る事を前提として言っているわけじゃないわよ。ただ、一人暮らしにしては大きめの湯船だなって思っただけ。

「うん、いい感じ。ありがと」
「そうですか。では」

と、物怖じせずに引き戸が開かれる。
同時に、私の顔も真っ赤になった。
深くは言わないかけれど、と言うか入ってきた瞬間に背中を向けたからちゃんとは見てない。と言うか見ない、見れない。

「?どうかなされましたか?アーニャ様」
「な、なんでもないわよっ」

くすくすレッケルが笑っているのが聞こえる。
レッケルは丁度私の位置とは逆の、嶺峰さん側だ。したがって、文句を言いたくてもいえないのが現状。
文句を言うには振り返って言わなくちゃいけないんだけれど、その、振り返るって言う事は。
考えて頭が茹った。
これじゃあ変態じゃないのよ、私。いやね、でもね、解って欲しいわけよ。
嶺峰さん綺麗な人だし、私なんかと比べてもってそも私と比べるのが筋違いって言いますか。もぉそれぐらい雲の上の人なワケなのよ。
そんな人と一緒にお風呂って、どういうことですかと。あいでんてぃてぃーとかあるわけよ。女の子としては。
いや、一緒に入ってもいいかなって思ったのは事実よ。でもね、それはね、本当にやましい気持ちがあったわけじゃなのよ。
って言うか、私と嶺峰さんは同性なんだから恥ずかしがる事もない、ない筈なんですけども。
湯船に顔半分を沈めて、顔が赤くなっているのを気取られないようにするのが精一杯。
お風呂場だから顔が赤くなっていても別に構わないかもしれないけど、でも、私の顔の赤さはきっと、普通にお風呂に入っている時以上に紅くなってる。
そんなのを気取られるワケにはいかないので顔を沈めて隠すんだけど。

「アーニャ様、お背中を洗わせていただけますか?」

がぼり、と湯船から一際大きな泡が吹き出た。

――――――

結局、その後の事はあんまり覚えていない。と言うか、思い出したくない。思い出すと、気恥ずかしいじゃ済まされない領域のお話にまで進展してしまうからです。
そりゃね、身体はピカピカ、髪の毛さらさらですよ。
全身からアロマの香りがたって気分が落ち着くし、髪の毛からもいい香りがたって、これは今晩よく眠れそう。
が、別の意味で眠れなくなりそうだった。
唯今の私の居る場所は、残念なのかありがたいのかは解らないけど、二階の西端に位置する嶺峰さんのお部屋のベッドの上です。
ピンク色のパジャマを着込んで髪の毛はリボンで纏めていない。つまりはロングヘアのままだ。
それにはちゃんと意味がある。髪の毛を纏めたまま眠ってしまうとクセッ毛になってしまって髪の毛が痛んでしまうのだ。それを防ぐためには、やっぱり髪の毛を下ろしておくのが一番いいんだけど。
その状態を、何故嶺峰さんのお宅でしているといいますと、その、本日は嶺峰さんのお宅で一泊させていただく事にしたわけですよ。
あ、正確には一泊していっては、と言う申し出を素直に受けちゃっただけなんだけどね。
にしても不覚だ。何で申し出を素直に受けちゃったんだろ。
...ああ、でも何となく解っている。
何で申し出を素直に受けちゃったのか、どうしてあの人の前では素直になるのかは、何となく。
つまりは、あの人の為に出来ることは何でもしてあげたいと思っているわけだ。
後何日此処に居られるかどうかは解らない。
ある程度、ネギの今の状況の確認が取れて、魔法界側からの通達が来れば、直ぐにでも帰還しなくちゃいけない。
まだ集めている情報の纏めや報告書の提出なんかは終わってはいないけど、定期連絡程度は取っている。尤も、私からの一方的通達だけれどね。
で、それが終われば、私は魔法界へ帰ってマギステルとして本格的に行動開始だ。もう、此処へは二度と帰ってくる事も叶わないかもしれない。
マギステルは兎に角世界中を飛び回る。飛び回るから出会いも多い。でも、世界中を飛び回るということは、一つの場所には留まってはいれないと言う事で、別れも多い。
そう、私は魔法使いだから、何時までも此処に居ていいわけじゃない。此処は、私の居場所ではないんだ。
私も、何時かはここから離れていく。
遅いか早いか、きっと早いと言う核心はあるけれど、出来る限り長くは居たいと思っている。
まったく、改めて感じるけど、とんでもない心境の変化だわね。
前の私から見ても、大分変わったと核心出来るような変化だ。
でも、そうして此処に居れると言うのなら、思い出が欲しいのかもしれない。
彼女の為に何かをなして、一緒に居た思い出を作って、それで、最後は彼女から記憶を消して、幸せになった彼女をみて去っていく。それで、いいと思う。
だから無責任にはなりたくない。
彼女と付き合い始めてしまったからには最後の最後まで付き合ってあげなくっちゃいけないと思う。
それが、魔法使いとしての理を覆してでも私が誓ってしまった誓いへのせめてもの在り方だ。
彼女の為にちょっと頑張る。アーニャと言う名の女の子としての、ちょっとした親切で良いと思うんだ。

「うん、大丈夫、だいじょうぶ、ダイジョウブ」
「みゅっ?アーニャさん...?」

そう、私は平気だ。
魔法使いなんだから、泣く事はない。
一人ぼっちになんて慣れている。一人でなんとかやっていく事なんて慣れている。レッケルも居るじゃないの。
誰かと一緒に居ても、最後の最後には思い出だけ胸に秘めて、幸せになったその"誰か"姿を見て、それでその姿を遠くから笑ってみていて上げられれば、それで上等。
そう、喩え、その誰かの記憶の中から、私が消えていたとしても。
そうやって生きていくのだもの。今までずっと、これからもそうしていく。
そう決めている。決まっていると言った方がいいかもしれない。
それぐらいの決意であり、同時に、認めたくもない運命というものなのかもしれない。魔法使いとしての運命。抗う事は出来ないものだ。運命って言うのは。
運命は抗えないもの。
運命に抗うと言うのは、それは運命に抗って言うんじゃなくて道を別に作っていくかどうかの違いなんだ。
抗えないから運命。決まっているから運命。
そう、なるようにしか組まれていないからこそ、運命と言う名の陣地を超えた力と言うもの存在している。
どこにもある。そんな力、どこにだって置いている。
冬になれば木々が枯れ、葉が落ちるように。そして春、また芽が息吹くように。
そうして何時かは根は腐り、朽ち果てていく事すらも。私たちも植物も動物も。あまり変わらない。
いつかはそうなっていくのが決まっていると言うのなら、運命に抗うと言った時点で死の運命すら抗わなくちゃいけません。
そんなのは無理だから、程よく頑張るのが一番。自分にできる事を、頑張る程度なのだ。
さて、そうなるとここで私がしなくちゃいけない事をするとしますかね。
ネギの監視は勿論だけど、何の因果か出会ってしまった魔法少女の為に残して上げられるもの。
あんまりにも一人きりだから、思わず手を貸してあげたくなってしまった人の為に、何とかしてお友達を沢山作ってあげよう。そうでなくても、普通に生きていけるように。

「アーニャ様?パジャマの方は背丈が合いましたでしょうか」

ゆっくりと開かれたドア。その先に。、乳白色液体が入ったちょっと豪奢なガラスのコップをお盆に載せた嶺峰さんが現れる。
その服装は、何でかガラスのコップに注がれた乳白色の液体と同じ乳白色のレース満載の真っ白いシルクの寝着。
危なげもない動きで静々と私が座っているベッドの下、床に座すとガラスのコップを私のほうへお盆後と渡してくれる。
勿論、その乳白色が何であるのか知っているから有り難く頂きます。
お風呂上がりのいっぱいはやっぱりこれだ。くぴくぴと飲んで、胸元を見る。
いや、そんな急に影響が出るわけはないんだけど、気にならないわけないじゃないの。
まだまだ私は成長期なんだし、そも、成長期にも差し掛かってないかもしれない。
そうなれば、今のうちにがっつり栄養を蓄えておいて成長期になったらぎゅーんって八頭身のナイスバディになりたいな、なんて思考しているわけですよ。
で、ちらと嶺峰さんを見てみたりする。
やっぱり優雅に、優雅に飲むと言うのはおかしな表現と思うのだけれど、でもやっぱり優雅だ。
こっちに気付いたのか、微笑まれる。
思わず顔が紅くなったのがよく解る。でも、いままでと違って俯いて顔を隠しただけって言うのはちょっとの成長というか、馴れなのかしらね。
でも、別に顔を隠したのは見られて恥ずかしくなったからじゃない。
体付きとか気になったのを気付かれてしまったのからと思って顔を隠したんだ。
だって、嶺峰さんプロポーション抜群だもん。ましてや体のラインが浮き出やすいシルクの寝着。女として、気にならないわけがないわけでありまして。

「...んぐんぐ」

顔を隠しながら牛乳を飲む。
嶺峰さんはもう良いのか、コップを置いてレッケルを肩に招きつつ何やらお話中だ。
こうしてみていると、嶺峰さんとレッケルのペアも中々似合っている。
私とレッケルは家族のようなパートナーだけど、嶺峰さんとレッケルはお互いに何だか似たような雰囲気がある。
蛇と似た雰囲気ってどんなかしらという突っ込みは野暮よ。
レッケルの蛇ながらも暖かい、優しげな雰囲気。
嶺峰さんの、近づき難い雰囲気の中にある、神秘的で、淡く、儚げな雰囲気。
......ん、それは似てない場所だわね。
でも、何だかそうやって感じさせてくれる場所が似ているって言うのかな。きっと、そんな感じ。

「あのさ、嶺峰さん」
「はい?何で御座いましょうか、アーニャ様」
「明日、本当何の予定もないの?
お友達とお出かけするとか。誰でも一日休みなら一日気ままに、やりたい事をしてもいいと思うんだけど......。
嶺峰さんもあるでしょ?そう言うの。自分の、したいこと」
「ええ、御座いませんわ。
でも、もしあると言うのなら、そうですね。アーニャ様と共に居る事。もしくは、叶わずとも、皆様と一緒に。
ああ、あるいは皆様が健やかに過ごせる休日であるのなら、それ以上は何も」

期待通りの答えは得られなかった。
返ってきたのは予測どおりと言うか、嶺峰さんらしいお言葉。
確かに、嶺峰さんは欲が深くない。
人間として見て、それはある意味で異常で、ある意味で純粋なのかもしれない。
でも、人間一つぐらい願望の一つは持っている筈。
嶺峰さんにそれがないとは言わないけど、彼女は極端に自分と言うものの見方が軽い。
自分を優先するのではなく、。優先順位は周囲にいってしまう。
だから、自分の叶えたい事も投げ打って、周辺の平等なんて言うのを願ってしまうんだわね。
もし、彼女がそうでありたいと言うのなら、それも構わない。
私は私で、彼女は彼女だ。
誰かが何かを言っても、結局、それは教訓にしか成らない。
実践するのはその人であり、個人の発言なんて言うものには、実はあまり力なんてものはない。
受け取る側に全てがゆだねられた時点で、その人間が言葉なんてものに一ミリも感心を抱いていないと言うのなら、その言葉は余りに無力となってっしまう。
だから、私はなるべく行動で示すタイプの人間だ。言葉ではなく、行動。
行動しなきゃ伝わらないって考えは少々傲慢じみているけど、結局最後にモノをいうのは行動力だ。
自ら動いて、自ら知る。
自らの道なんだから、自分で見て知っていく方がいい。
仮令間違えで、遠回りのような道順かもしれないけど、でも、自分で決めたのならきっと、後悔しても何にしても責める対象は自分だけで済むから。そっちの方が、いいと思いたい。そう考えている。
......うん、なら行動しなくちゃ。
彼女の事は結局のところ言葉でどうにかできる事じゃない。
言葉が通じないと言うのなら、もう行動で示さなきゃ。何が楽しくて、何が綺麗で、何が悲しくて、何が汚いのかを。
手を握って連れて行くだけでもいい。
世界をぐるぐる、順路のように回っていくだけでも、色々なものを自分の目で確かめられる。そうする事に意味があると思いたい。そうだ、そうだと言うのなら。

「ねっ、嶺峰さん」

飲み干した牛乳入りのコップを置いて、ベッドに這い蹲って両手で頬杖。
ふわっと舞い上がった髪の毛がベッドの上に扇状に広がって行く。
ちょっと女の子らしい態度で、それっぽい感じを出してみる。いや、それっぽいって、何がどれっぽいのかは判断に困るんだけれどね。

「はい、何で御座いましょう?」

反応が薄いのはもう知っている事だから、大事なのはここからだ。
彼女の事だもの。きっと、これから私が言うような事には慣れていない筈、だと思いたい。
男の子とかのお付き合いはきっとないでしょうね。伊達に女子中に行っている訳でもなんだもん。それならそれで好都合だけど。

「明日さ、何も用事ないんだよね」
「はい、私(わたくし)の用事は御座いませんが」
「そう、ならさ。私とデートしよ?」

こちっと、時計の針が10時を指す。
にこにこ笑顔を私と、眼をぱちくりさせている嶺峰さんが印象的で、可愛らしい。
私の予想通り、嶺峰さんの反応は今まで見た事もないような新鮮なものだった。
眼をぱちくり、何度も何度も瞬きして、頭の中を整理しているようにも見える。
ここまで露骨な態度を見せた嶺峰さんにちょっと喜ぶ私は、やっぱりちょっとマゾッ気があるのかなぁとも思いつつにこにこ。
見る人が見れば、と言うか、嶺峰さんの肩に乗っているレッケルがみゅーっと睨みつけているところを見ると、きっと意地悪な猫の笑顔のようにも見えるんでしょうね。でも、それが狙いだもん。我慢してよね。
さて、どうくるっ、と身構えていると、嶺峰さんの表情がふわりと穏やかになる。
さっきまでの瞼をしきりに瞬きさせているような様相もない、いつもの嶺峰湖華さんの表情に戻って、笑い。そうして、私の目を真っ直ぐ、あの深紅の眼差しで直視して、是非にとだけ告げて、コップ二つを持ってその場から立ち去っていってしまった。
......ちょっと残念だった。
ああいう普通の反応が出来るのなら、どんな人でも付き合って行けるはずだと鷹を括って告げた発言だった。
ちょっとしたテストみたいな風になってしまったけれど、でも、あんな可愛らしい反応ならきっと誰だって見る目を変える筈、そう信じていった筈なのに、結局は。

「失敗、かなぁ......」

立ち上がって、窓の方まで歩き、やや大きめの机越しに構えられた大き目の窓のカーテンを開く。
網戸の向こう。夜風吹く学園の風は仄かに冷たく、あの巨木は黒く染まっていた。
黒澄みの大木。明日も、あの木の根元、あそこに、銀壁は現れるかな――――

第十八話〜襲来〜 / 第二十話〜逢引〜


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