内容:andante -唄う花- 番外
蓮父と秘書の攻防。
「社長がいません!」
もたらされた報告に秘書室の面々は全員、動きを止めた。
まるで走馬燈のように罵りの言葉が胸を過ぎりながら、穏やかな面持ちで手にしていた書類を片付ける。
いついかなる時も、仕事は迅速かつ丁寧に。
通常の数倍で手にしていた仕事を片付けた彼らは、前もって決めておいた配置につき、パソコンの画面を切り替えた。
「作戦コード、SSS、開始します」
社長を捜して仕事をさせる、通称スリーエスと呼ばれるチームがそこにあった。
ビルの最上階に社長室があり、隣接する形で秘書室がある。
秘書室を通らなければ誰も出入りできない。…はずだった。
「いったいどうやって…」
日常業務においては、優しい物腰と切れのある頭脳で信頼の篤い秘書たちも、この難題にはすぐに答えが出せない。
はめ殺しの窓からは良く晴れた空が一望でき、いっそ清々しいほどである。
この辺りのビルと比べてもかなり高く、まともに考えて、窓から抜け出すなんてことは有り得なかった。
だが窓を使わず、秘書室も通らず、脱出を果たした男がいるのだから、何らかの方法があって然るべきである。
「それは後で追求するにせよ、まずは見つけ出さなければなりません」
「新しく忍ばせていた発信器は?」
「……ここにありました」
秘書のひとりが社長室のゴミ箱から拾い上げた小さな発信器は、彼ら秘書の目にほくそ笑む社長の姿を思い起こさせる。
社長秘書には3人の代表秘書がいる。第1、第2と割り振ることを面倒がった社長によって、筆頭秘書が3人選ばれ、外出時などは必ずそのうちのひとりを伴うことになっていた。
だが、それがきちんと実行されたことはあまりない。なぜならその社長が勝手に出歩いてくれるからである。
難しい顔をうかべた代表秘書の後ろで、少しのんきを顔をした他の秘書たちは、新しく雇われた者たちであり、前社長には仕えていない。ただ彼らは現社長のことに関しては良く知っていた。
「社長は変わりませんねえ」
「ほんとにちっとも」
小さい会社だったものの、男はその時から社長だった。ここにいる者たち全てが、前の会社から付いてきた者たちで、中には学生時代からの友人、昔々に近所に住んでいた隣人、などもいる。
「ここは大きな会社だから、抜け出さなくなるかと思ったんだが」
「あの人は昔からのガキ大将で、人の言うことなんて聞かないんですから」
「防犯カメラの映像、出たわ。10分前よ」
警護室から引っぱった映像に社長が映っているのを見つけたひとりが、全員に見えるように天井から下げたモニタにそれを映し出す。
「掃除のおばちゃんとお茶か?」
「…お茶だな」
「お茶ね」
3人の代表秘書は顔を見合わせ、湯飲み茶碗を持って大きく口をあけ、満面の笑みをうかべた社長の姿を熱心に見つめる。
社長とは高校時代、同じ弓道部に所属していた香野(こうの)は眉間にシワを寄せ、いかつい顔に考え込むような色を乗せた。清掃控え室での光景、それはありふれた団らんをしているように見えるが、香野にはどうもしっくり来ない。
「鷺沢、どう思う?」
水を向けられた鷺沢(さぎさわ)は端正な面差しの青年である。
優しい人、と彼を見た十人のうち、少なくとも9人は思いそうな穏やかな目もとに、ふんわりとした笑みがよく似合う口もと。社長が大学時代、ひとり暮らしをしていた時の隣人である。
「解せないな」
鷺沢もまた眉をひそめ、薄い唇に指先をあてた。
映像に映る姿は秘書室に居た時と同じスーツ姿である。
社長が他の従業員に声をかけることなどいつものことだが、それは大抵休み時間にありふれたスーツ姿でまざりこんだり、あるいは、まるで通いの営業のような他人顔でのこと。
社長らしい姿で出れば威厳もあり、理知的な表情に見惚れられることも多いが、ちょっと雰囲気を変えただけで、殆どが自社の社長を見分けられなくなるぐらいの姿になる。むろんわざとそうしているのだ。社長業は堅苦しくて、たまには息抜きしたいというのが本人の言い分である。
「島江、拡大できるか?社長の口もとだが」
「どこからどこまで?」
「最初から頼む」
手早くキーを叩いて鷺沢に応えた島江(しまえ)は、凛とした美女である。
さして大柄でもない島江は、恐らくここにいる秘書の中で最も強い。もとは要人警護をしていた彼女は、蓮の母について来た女性だった。
映像を処理し、社長の口もとだけを拡大して表示する。
「今日も良く晴れていますね。このお茶、どこのですか?そうなんだ、おいしいんで息子に教えてやろうと。そうです、息子がいてね」
読唇術を駆使し、鷺沢が社長の台詞だけを読み上げる。
「え。そうはみえない?嬉しいなあ。うんうん。じゃ、そろそろ行きます。また乗せてください」
「…そういえば、社長室に清掃が入ったわね」
「30分ぐらい前だな。大ぶりの清掃ワゴン付きで中へ」
大の大人でもすっぽり収まれる形のワゴンの中に入り込み、まんまと外に出たのだろう。防犯カメラを確認すると、清掃員の服を借りて歩く姿が確認できた。
「まだ社内にいると思うか?」
「思わないな」
彼らの会話に従い、新しい画面を再起動させる。
社内捜索用から社外捜索用へ。
秘書室には社長捜索用ツールがみっしり用意されていた。
「社長。秘書室から再三の応答要求が来ています」
「社長はよせ」
清掃服を脱ぎ、ありふれたスーツ姿に着替えた男が嫌そうな顔になるのを、第三警護隊隊長はいつもと変わらない無表情で見つめた。
彼の務めはこの男を守ることである。誰かにおもねることではない。
よって、逃げ出す男を止める義務も、それを隠す必要もなかったが、行き先をこちらから伝えるのは護衛対象を危険に晒す可能性があるため、彼らは黙秘する。護衛対象がふらふら出歩くなら、それについて行くのみ。
「社長は社長です。第五隊に連絡を取りますか?」
「ああ」
彼らは逃走を手伝おうと思っているわけではない。だがその安全を守るために結果的に補助にまわることもある。
社長を回収、運搬中のボックスカーの中で、第三警護隊隊長は隊長同士が連絡を取るための回線に繋ぎ、他の世儀家主要人物についた警護隊長を呼び出す。第三から第五へ、繋ぎ慣れている彼の作業に戸惑いはない。
「本日の蓮様について、3分語れ」
「"また3分ですか。全く足りないんですが"」
「我々は忙しい」
「"分かりましたよ。本日の蓮様はですね"」
己の警護対象についてのみ、語り出したら止まらない第五警護隊隊長はきっちり3分で本日いかに感動する出来事があったかを述べた。その端々にきちんと必要な情報も混ぜているのだから、相当な高等技術である。
回線を切ると、沈黙が降りる。ただの報告を聞いただけなのに、ひどく疲れた顔になった第3警護隊長を、男は少し慰めるような顔で見やった。
「今日も元気だな、彼らは」
「…お恥ずかしい限りです」
「ああ、そういえば、もと君の部下だったか」
そこに警護対象の父親がいることを知ってか知らずか、普段より熱の籠もった報告を受けた第三警護隊隊長はしかめ面をうかべる。
その存在を知られてからも、下手なプレッシャーを与えたくない一心で再び隠密行動に徹している第五警護隊は彼らと同じ要人警護のプロだが、警護対象に関することになると、少々気合いが入りすぎるきらいがあった。
「悪い奴ではなないんですが」
「助かってるよ。俺はダメな父親だからな」
「社長、人は誰しも、得手不得手があるものです。そのようなことを言っては、蓮様だけでなく、あなたの部下たちも悲しみますよ」
「お前も?」
「……社長、おふざけは程々になさってください」
社長とともに捜索の手から逃げ延び続ける第三警護隊に対し、お前たちも同罪だと思っている人々がいるとしても、彼らは全く気にしない。
しかめつらで黙々と動く彼らは、結局のところ第五警護隊とあまり変わらない。彼らの根底にあるのは、警護対象のことだけである。
「第3隊、応答しません」
「ああそうでしょうとも、期待などしていませんよ。第五警護隊に連絡は入りましたか?」
「あ、今入りました」
「発信元を探って」
「はいっ」
玄人はだしの逆探知技術は彼らが彼らの社長を見つけ出すためだけに学び、考え出したものである。
正直、情報の共有をすればいいだけなのでは、とか、法律は…とか言う話は、ここでは関係ない。大切なのは糸が切れた凧の回収なのである。
「でました」
「島江たちにデータを送るんだ。香野、聞こえたか?」
「"ああ"」
社屋を出た島江にデータを送らせ、通話回線を開いたままにしておいた香野にインカムで話しかける。島江は逃走社長を推測をもとに追いかけ、香野は推測をもとに特定のポイントでの待ち伏せをしていた。
「向こうもバカじゃない。偽データを紛れ込ませられる可能性もある」
「"まったくな。だが"」
「そうだ。必ず学院周辺に1度は寄る。そこを叩け」
「"了解"」
これは情報戦だ。
様々な情報を得て、社長の行動を類推し、先手を打たねばならない。
そして秘書たちには守らなければならない時間制限がある。
「次の会議までには必ず連れ戻すんだ」
そう、これがあった。
「いつも重要な用までには戻っているだろ?」
悪びれたところがない社長を代表秘書たちは冷ややかな目で見やる。
「ああ、いつも直前にな」
「そう。まったく心臓に悪いことに」
「わたくしどもとの打ち合わせも必要だとは思いません?」
「いやあ、ぜんぜん。みんな優秀だから。信頼しているよ」
無事会議前に社長を発見、回収した秘書室の面々は晴れがましい笑顔で彼らを見送っていた。
左右と後ろを固めて秘書室を出て歩きながら、代表秘書である彼らは社長に目を通して欲しい書類を次々と受け渡す。目を通すのを待っていられないので、傍らから別件の内容を報告しつつ、決済が必要な書類に判を捺させ、会議室に突き進んでいた。
社長が紡ぐ甘やかな台詞に、彼らが惑わされることはない。
「そりゃどうも。次これ見ろ」
「ありがたいお言葉涙が出ます。次はこれです」
「社長、次はこれですわ」
三者三様に微笑みながら、毅然と処理を促す。
その人を思う気持ちは誰にも負けない。
けれどそれとこれとは別だった。
秘書の仕事は社長が仕事をしてこそである。甘い言葉に酔いしれるのは後でいい。
それにそんな台詞がなくても、彼らには彼らの生きがいがあった。
「社長がまたいません!」
「そうですか。では、新しく入れた例のものを使いましょう」
SEGIグループ社長秘書室。
本日も逃げる社長、追いかける秘書の戦いがはじまる。